1950年代:旗袍の輝かしい瞬間と手芸の喜び

歴史(年代別)
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1940年代に旗袍は完全に洋服化しました。

中裁と洋裁が混合して、旗袍は黄金時代を迎えていました。

1950年代の旗袍にも輝かしい瞬間がありました。

1949年に中華人民共和国が建国され、新しい時代の雰囲気に包まれていました。いろんなファッションに人気がでて、流行の主役は民間人にうつりました。

民主主義、勤勉主義、集団主義は、シンプルで実用的なファッションの時代精神を反映しました。建国当初、いろんな女性が解放地域にそくした服を着ていて、赤と緑を着た「ブルジョアジー」を軽蔑していました。

とにかく、1950年代、とくに前半はツーピースが男女とも多いです。

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衰退する旗袍

「一生懸命働きシンプルに」が、よく使われていたスローガンでした。

人々の衣服への追求は、革命的な仕事に集中するように変わったようでした。旗袍でイメージされるのんびりした快適な女性像は、この雰囲気のなかで行き場を失いました。

また、アパレル産業は大きな変化を遂げました。

工房の​​前か後かにある小規模な裁縫店には、販売スペースが割り当てられるようになりました。大規模で機械を使うアパレル産業は、大量生産と輸出を目的に流れ作業をとりいれました。衣料品生産は、昔から断片的で混沌としていましたが、だんだんすっきりした経営体制に変わりはじめました。

また、私企業のアパレル会社や服装店の裁縫従業員は、大部分が国有・集団企業の服装会社、工廠、または合作社に転属しました。

この変化は、オーダーメードの旗袍産業に大きな影響を与え、旗袍は衰退期に入りました。

1950年代に、幹部衣装が服装の高い地位を占めるようになりました。その頃の衣服は、簡便さ・素朴さ・温厚さを提唱していました。

メンズウェアでは、おもに中山装、青年装、学生服、春秋シャツ、作業用ブルゾン、ミリタリーコート、パーカーコートが主流。

1953年、絵を学んでいる若年労働者たち。 via 带你穿越,看看上个世纪50年代的上海

レディースウェアでは、ロシア風ワンピースとレーニン服が人気。多くの女性は、レーニン服をそのまま着ました。服の色は比較的単調で、主に緑、青、黒、灰色でした。当時は生地のレベルが低かったため、政府は繊維消費に割り当てを課して、流行の速度を大幅に遅らせました。

アパレル産業全体では活況を呈しました。ソ連や東欧諸国に、スーツ、コートや手工的な旗袍を輸出したからです。

つまり、フォーマルウェアや日常着の種類が増え、そのもとでファッションの多様化が生じたのです。そうなると、旗袍は相対的に地位を下げていくしかありませんでした。

なかには、美しくドレスアップするのが好きな女性は、セーターの編み物、領の形や全体のサイズの改善、ネックラインの内側と外側の組み合わせなど、服や服のコロケーションの詳細に気を配りました。また、すっきりとしたレベルに衣装を改造しました。たとえば、ズボンの縫い目の処理や古着のリニューアルなど、過度に目立たずに美しさも追求したのです。

1956年までに、ファッション産業の状況はいくつかの変化しました。

旧ソ連の指導者が中国を訪問したとき、中国人の服装は社会主義勢力のイメージに合わないと言ったそうです。

そこで中国政府はイメージを変え、繁栄する社会主義の新しい顔を反映しようと考えました。1956年以降、政府は「誰もが派手な服を着る」ことを求めました。この年は、ソビエト製の花柄生地が中国市場へ大量に投入された年でした。

このように、建国すぐの中国は、とかくソ連の繊維政策に左右されていた感があります。アメリカで余りまくった綿花を日本が大量に買わされていたことを思い出しました。

なお、1950年代前半に旗袍が忘れられようとしていたころの様子は、次のページがわかりやすいです。

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ファッションショーで復活する旗袍

1956年、上海女性連盟と芸術家協会は、共同でファッションショーを主催し、展示品を重複させて、北京と上海で同時開催しました。現在の上海展覧センターの3階全体が満員になりました。前例のない壮大な機会となり、しばらくの間は、美しい服を着ることが当然のように思えました。

ユニット内の女子部の書記が率先して髪の毛をパーマし、新しい服を着ました。

この時、旗袍は新しいの場所をえました。1950年代の旗袍には時代が深く刻印されています。

複雑な装飾をすべて放棄し、「実用的、経済的、美的」なことは、衣類、染色、織物などの芸術品や工芸品のサークルにとって普遍的な要件となっていたので、シンプルで寛大な旗袍のスタイルが適合したのです。ウェストは1940年代よりも緩かったです。刺繡や装飾はほとんど使われていません。色もエレガントに調和していました。

1958年6月、中国政府は第9回国際ファッション会議に参加しました。会議はルーマニアの首都ブカレストで開催されました。加盟国は7カ国でした。

中国は、同胞国のパフォーマーの協力をえて、オブザーバーを派遣し、旗袍を中心に26セットの中国衣装を展示しました。展示会での旗袍の絶妙な技量と中国独特の特徴は、参加者から好評でした。

このときの旗袍は、無地で長袖、裾は甲より長く、ふくらはぎの真ん中までスリットが開いていました。ウェストは緩いですが、はっきりしたラインがありました。領や袖にはかなり細いパイピングが施されていました。

旗袍の上には前の開いた深い色のベストを着て、チャイナボタン3つと镶滚のシンプルな装飾が施され、ポケットの分布はやや男性的でした。新しい社会における女性の自立、有能で安定した気質を示していました。

一般的な旗袍の普及

これまで旗袍の浮沈を中心に書いてきましたが、新中国成立後、民衆の生活が急に豊かになったわけではありません。

ぱおつの母が言うには、1958年が一番つらく、食糧不足がひどかったそうです。そのため、中山装、青年装、学生服、春秋シャツ、作業用ブルゾン、ミリタリーコートなどのユニフォームが定着していました。

ですから、旗袍を着るのは、裕福な家庭の女性か、あるいは古着を上手く活用した女性たちでした。

とにかく、1950年代後半に着られた他の旗袍をみてみましょう。

次の写真は旗袍が二人、ツーピースが一人。旗袍はゆったりめに構成されています。

1955年、昔のアルバムを開く家族。带你穿越,看看上个世纪50年代的上海

次の写真は短袖の旗袍で、長さは足首より上。裁断は動きやすさを考慮し、プロポーションは調和しています。立領は前に傾斜していて、真ん中に円形の花ボタンを一つ。肩パッド以外の装飾はなし。生地は無地のシルクに模様をあしらっていて、全体的に優しい感じです。

包銘新主編『世界服飾博覧 中国旗袍』上海文化出版社、1998年、42頁。

1950年代の旗袍は、以前よりも健康的で自然な気質を加えました。当時の「美しく寛大な」基準に沿ったものでした。素材は主に綿、絹、羊毛の生地で、当時は高級品とされていましたが、お祭りや催事のときにしか着られませんでした。

健康的で自然な気質をあたえる綿の旗袍。包銘新主編『世界服飾博覧 中国旗袍』上海文化出版社、1998年、42頁。

旗袍の着こなし方はたくさんありましたが、ベストがよく着られました。また、セーター、レーニン服、ミリタリーカジュアルなどにも合わせました。一部の女性作家、女性外交官、国家指導者の妻たちが海外を訪問するとき、旗袍の製作をよく依頼しました。こうして、旗袍は中国の社交的な礼服の一種になったのです。

比較的緩い政策の時代に、このタイプの旗袍は、赤、白、青などの明るい色に加え、刺繡、アップリケ、手描きなどの装飾技法をカラフルに使いました。政府がファッション政策を推進したこともあって、多くの都会女性が材料や衣服を購入しました。1950年代後半の数年間、旗袍は素晴らしい瞬間を点滅させたのでした。

胸にアップリケをしただけで、装飾のないサテンの旗袍ですがカラフル。包銘新主編『世界服飾博覧 中国旗袍』上海文化出版社、1998年、45頁。

政治的な社交面でも、日常生活でも、1950年代に旗袍ははっきりと復活しました。刺繡、アップリケ、手描きなどの手芸の喜びは、当時の写真によく反映されています。

ところが、1960年代に始まった文化大革命によって、旗袍は暗い時代を迎えていくこととなります。

また、ぱおつが1950年代旗袍を意識して作った作品も、ぜひご覧ください!

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この記事の著者
ぱおつ

旗袍好きの夫婦で運営しています。ぱおつは夫婦の融合キャラ。夫はファッション歴史家、妻はファッションデザイナー。2018年問題で夫の仕事が激減し、空きまくった時間を旗袍ラブと旗袍愛好者ラブに注いでいます。調査と執筆を夫、序言と旗袍提供を妻が担当。

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