1940年代:旗袍黄金時代の継続と浮沈

歴史(年代別)
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1930年代に旗袍はスリム化し、一部にダーツや接袖をとりいれたボディコンシャス化の旗袍も登場しました。

この年代にかなり人気が出たので、旗袍の黄金時代といわます。

しかし、抗日戦争の関係から、そのままスリム化やボディコンシャス化がスムーズに進んだわけではありません。

1940年代は旗袍の黄金時代がつづきましたが、戦争の影響で旗袍の形態に制約が大きくなりました。

抗日戦争はこう着状態にあり、孤島となった上海はいろんな面で不均衡な発展を遂げました。そして、二つのまったく異なる旗袍スタイルが出てきました。

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孤島上海での生活の変化

193年代の酔った生活や夢はまだ残っていましたが、ほとんどの人は衣服の贅沢を気にしませんでした。

女性がよく訪れるカフェ、喫茶店、ダンスホール、劇場、その他のレクリエーションの場所も、ほとんどが物寂しくなっていました。

一方では、景気が低迷し、資材が不足し、物価が高騰し、糸の値段が急騰しました。1940年代初頭の報告によると、衣料品の価格は100%上昇したそうです。

そこで、いろんな人たちが古着運動やシンプルな服装着用を積極的に提唱しました。

たとえば、影響力のあった新聞「申報」新年号では「衣食住」計画を発表しました。

「今日深刻な困難に直面しているこの国では、災害を救うときが来ました。古い服を着るキャンペーンを提唱します。古い服か新しい服は関係ありません。問題はキャンペーンに対応できる新しい思想です」。そして、「節約と経済性だけが必要です。もし新しい服を新調するときは、純粋な国産布を使ってください。抗日戦争の第二期では、経済は軍隊よりも重要であり、元日から経済抵抗戦争がはじまる予定です。――さらに要注意。身につける物はすべて国産品です」。

民衆は衣服検査を提唱され、骨の折れるものとなりました。

簡素な旗袍

1940年代初頭に一般の人々が来ていた旗袍はかなり簡素になり、1930年代に人気があった掃除旗袍のような床を拭く旗袍はなくなりました。

旗袍型のチャイナブラウスが増えて、下衣にズボンをはくスタイルが主流になってきました。ワンピースとして旗袍を着る場合でも、丈はふくらはぎの中央か膝あたりまで短くなりました。

川沿いの埠頭の混雑した小道。人力車に乗る女性の旗袍の丈は膝下ほど。生地に柄はあるが、パイピングが袖回りにしかなく、立領がかなり低い。戦時化の節約した旗袍。1945年重慶にて撮影。(美)拉森、(美)迪柏攝『飞虎队队员眼中的中国:1944-1945』上海锦绣文章出版社、2010年4月、89頁。

暑い夏には袖が再び外されるようになりました。領も短くなり、1930年代のような、顎に3つのボタンがついた立領も消えました。

かなり簡素になった旗袍は、簡便かつフィットしやすいようになり、1940年代旗袍の独特なスタイルとなりました。

この写真は、中国雲南省昆明市にて、フライング・タイガース・チームだったアメリカ人が撮影した母と子供の1コマ。(美)拉森、(美)迪柏攝『飞虎队队员眼中的中国:1944-1945』上海锦绣文章出版社、2010年4月、58頁。

旗袍の装飾は非常にシンプルになり、使う素材もかなり一般的になりましたが、それでも日常着の主流となっています。

上の写真で母親は同じ布の上下を着ています。上衣は旗袍と同じ形で、立領は低く、連袖の半袖です。パイピングはなく、かなり簡素な旗袍(チャイナ服ジャケットというべきか)です。下衣はズボンでしょう。

装飾はシンプルさにエレガンスをみいだし、煩わしさをのぞくためにパイピングさえ使わなくなりました。複雑な镶滚(線入り縁どり)は花柄のチャイナボタンに代わりました。そして、チャイナボタンも煩わしいとのことで、すぐにスナップ・ボタンに置き換えられました。

張愛玲の「更衣記」によると、

すべての装飾品は役に立つか、役に立たないかに応じてすべて削り取り、残ったのは、ただ、一枚の、身体にぴったりする肌着である。首元、両腕、すねを露出させていた。出典:張愛玲『更衣記』徐青訳・解題、『文明21』第36号、2016年3月、138頁。注)「嵌め込みボタンに代わった。」は原文にない。
愛知大学リポジトリ
CMS,Netcommons,Maple

旗袍はより軽くフィットし、ラインはより簡潔で滑らかになりました。

1940年代の広告イラストでは、おしゃれな女性が木のそばに立って、鮮やかなブルーのノースリーブの短い旗袍を着ています。杭稚英作。via 【民風民俗】旗袍的「前世今生」 | 時裝 | 新唐人中文電視台在線

1940年代の広告画では、おしゃれな女性が木のそばに立って、鮮やかなブルーのノースリーブの短い旗袍を着ています。この旗袍は裾が膝まで届くだけで、短いベストを着ているように2本の腕が現れ、若々しいです。

旗袍では中国と西洋の合壁スタイルがつづきました。西洋ミニスカート、ベスト、セーター、オーバーコート、時計、指輪、アクセサリーなどは、1930年代とは異なりすべてシンプルでした。

国産生地の推奨と簡素な生地

1940年代、国産品の人気は、国産布を使う旗袍をさらにユニークにしました。

メーカーはレーヨンの生産を競うようになり、絹や羊毛から人工羊毛へ代わり、外国製品と競争しました。自家製布も旗袍の一般的な素材になりました。

抗日戦争初期には、国産の白綿布やウールの青布(愛国布とも)で作られた旗袍も上海で人気がありました。

民国海派旗袍赏 : 南京金陵大学学生,摄于1940年 via 相册_POCO空间_POCO网(POCO.CN)

上の写真は、1940年に撮影された南京金陵大学学生たちの海派旗袍だと転載元に説明されています。

抗日戦争(日中戦争)時、物資欠乏と節約強要は中国も日本も同じでしたが、旗袍には国産布を用いたため衣服の材料生地は不足しませんでした。とはいえ、かなり装飾が質素になっています。

なお、2015年にぱおつは雲南省博物館で開催された海派旗袍展に行きました。その感想が写真付きで「海派旗袍展-雲南省博物館 | atelier leilei」に詳しく述べられていますので、ご参照ください。

贅沢な旗袍

他方、酩酊と夢のなかで生き、歌と踊りに明け暮れ、贅沢な生活を続けた人もいます。これらの人々は、豪華な宝石で毛皮の襟つき旗袍や毛皮の襟つきコートを着ていました。

1930年代に、脚を見せる選択肢が旗袍に加わりました。

映画「ラスト・コーション」でタン・ウェイが旗袍を脱ぐ場面。チャイナボタンを一つずつ外していきます。中からスリップ・ドレスが見えています。

映画「ラスト・コーション」でタン・ウェイが旗袍を脱ぐ場面。チャイナボタンを一つずつ外していきます。中からスリップ・ドレスが見えています。LUST|CAUTION ©2007 Haishang Films

上の写真はアン・リー監督の映画「ラスト、コーション」(Lust|Caution, 2007)の一場面です。1942年の上海が舞台です。

タン・ウェイ(湯唯/Tang Wei)演じるワン女士がトニー・レオン演じるイー氏の前で旗袍を縫いで行く場面です。チャイナボタンを一つずつ外していき、中からスリップ・ドレスが見えるようになります。

さらに旗袍を捲ると、次の場面のように、彼女はガーター・ベルトとストッキング(合わせてガーター・ストッキング)を穿いていることがわかります。

この直前の場面で、彼女のストッキングは後が縫われているシーム・ストッキング(フルファッションド・ストッキング)でした。

タン・ウェイが旗袍を捲ると、中からガーター・ストッキングが現れました。

タン・ウェイが旗袍を捲ると、中からガーター・ストッキングが現れました。LUST|CAUTION ©2007 Haishang Films

ラスト、コーション」のヒロインタン・ウェイは1万人の中から選ばれました。候補にはチャン・ツーイーやスー・チーらもいました。

当時の旗袍を着て演技する難しさをタン・ウェイは次のように話しています。

チャイナドレスを着こなすには、歩き方や座り方だけでは不十分で、その背景にある文化を理解しなければ駄目なんです。先生からは昔の人たちの日常生活、たとえば歯の磨き方などまで、いろいろなことを教えていただきました。それから、膝に輪ゴムを巻いて、脚が開かないように動く練習もしましたね(笑)。普段の私はボーイッシュな格好をしていることが多く、チャイナドレスはおろかスカートさえめったにははかないんです。この撮影を通じて、自分の少しは女性として成長したかなと思います。

出典 張一帆編『聴く中国語』日中通信社、第74号、2008年2月号、5・6頁。

また、1940年代なかばに、一部の旗袍にファスナーや肩パッドを使うようになりました。ファスナーは一時的にかなり流行しました。

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抗日戦争勝利後の旗袍

抗日戦争の勝利後、旧上海の豪華さはピークに達し、エレガントでゴージャスな旗袍が再び人気を博しました。1930年代後半に登場した改良旗袍も再人気。

このとき、旗袍の改良の強度がまして、胸ダーツと腰ダーツを使うことが増え(詳しい時期は不詳)、旗袍はさらに身体にフィットするようになり、女性の曲線美をより際立たせました。旗袍の露出も広がりました。裾がふくらはぎ上部から膝まで上がり、1940年代に登場した旗袍ならではのスタイルになりました。

1940年代後半の旗袍

1940年代後半、国内のファッション産業はかなり発展していて、新しい服や新しいスタイルがどんどん出てきました。着装スタイルはより多様になりました。アメリカの服装は上海などの大都市でとても人気がありました。もはや、旗袍は唯一の選択肢にはならなくなりました。スーツやワンピースドレスなどの洋服は、カジュアルに着られます。

洋服の影響

画家の杭稚英は「启东烟草启东烟草股份有限公司」の広告のために、4人のファッショナブルな女性たちを描きました。

稚英作、紅獅牌、哈德門、啓東煙草股份有限公司、規格:79.0cm X 26.8cm、趙深珍藏。趙琛『中国近代広告文化』大計文化事業有限公司(台湾)、2002年、379頁。

上の広告はそのうち2点だけ。なんとか蔵書だけで見つけました。

4点がそろっているのは、宋家麟『老月份牌』(上海画報出版社、1997年)で、いつか手に入れたいところです。また、現物は「历史文化年谱 | 上海年华」が所有か…。
http://memory.library.sh.cn/

このモデルたちはゴージャスでエレガントなドレスを着ています。スタイルは異なりますが、すべて長いスカートが床まで伸びています。彼女たちが着ている服は今でも流行しています。

広告画の画家たちは、ファッショナブルな女子とその甘やかな都会のライフシーンが表現内容にふさわしいと考えました。新しい服飾を背景に、女性のイメージはより目立ち、より魅力的になり、豊かで甘く、同時代のスタイルを表しました。

改良旗袍の第2期

この精神の影響をうけ、旗袍はだんだんファッショナブルに戻りつつあり、旗袍には新しいスタイルが生まれていきます。1930年代後期以来の改良旗袍です。

肩縫線とダーツと接袖

肩縫線は1930年代後半に導入されていました。30年代の改良旗袍にはダーツよりも归拔が主流でした。だんだん胸ダーツが使われるようになり、腰ダーツと並行して接袖(装袖)が1940年代中頃に導入されました。

旗袍復活のなかで最も大切な変化が接袖の普及でした。それとともに旗袍はよりフィット感が増しました。

接袖(装袖)は1930年代に導入された説もありますが、1940年代に広まっていきました。このことは旗袍の洋服化を示す大きな出来事でした。この年代にダーツが普及したのも同じように大切です。

肩パッドとジッパー

また、肩パッド(垫肩)とジッパー(拉链)も旗袍に採用されました。伝統的な一文字ボタンや花ボタン(チャイナボタンの一種)をジッパーに代えるのは一つの流行になりました。もちろん、今でも正装として旗袍を着るときは、だいたいチャイナボタンを愛用しますが。

肩パットやジッパーの導入は、1940年代における旗袍の洋服化の一例です。

旗袍の立領も技術的に構造が改善され、取り外しできるようになりました。分解と洗浄のしやすさは、1940年代に旗袍を着ていた老人たちの記憶に今でも残っています。

御生堂が集めたファッション画の古い広告を時系列に並べると、1940年代には、旗袍の変化はサイクルが短くなり、フィット感が増し、女性の身体ラインを表現するようになったことがわかります。露出の度合いが増して、着こなし方は無限に広がり、あわせるアイテムが増えました。

1949年、中華人民共和国成立前夜、旗袍は中国でかなり普及しました。都会の女性に日常着として着られ、ほとんどすべての都市女性が必ず1着か2着をもっていました。地方女性をのぞくと、当時の中国人女性は、経済力、年齢、体型などに関係なく、ほとんどすべての女性たちが旗袍を着ていました。ここで、旗袍はすっかり民族衣装になりました。

1947年に写された写真を紹介しておきます。

真ん中の女性が有名な京劇の舞台芸術家、かつ京劇の女優で女性役の童芷苓。ここに写る5人兄弟がすべて京劇界へ進みました。

ノースリーブ、膝丈、パイピングなしの旗袍。1940年代前半を引きずったシンプルな旗袍。近代京劇の歴史で、「家族一団」はとてもユニークな風景です。童芷苓、童祥苓などに代表される童家の兄弟姐妹の構成はまばゆいばかりの素晴らしい花のよう。 via “童家班”,梨园界的传奇家族_童芷苓

隣は妹の童祥苓で、二人ともノースリーブ、パイピングなし、膝丈の旗袍を着ています。

1940年代前半の戦時節約を引きずったシンプルな旗袍ですが、立領はかなり高くなっているようです。混在的な旗袍が1950年代にかけて洗練されていって開花していくようです。

増えた装飾品

1940年代後半、国内の捺染技術や織布技術はまだ遅れていて、生地の種類も単調なものが多かったです。生地の人気もあまり目立たなかったため、装飾が増える傾向にありました。

そこで、かつて流行したあらゆる種類の絶妙なパイピング(镶滚)も復活しました。

また、流行中のアクセサリーは旗袍にどんどん投入されました。生地には透け素材(シースルー)に、レース、ルース、スパンコールなどがよく使われ、より輝きを増しました。このような装飾は光の下でより輝きを感じます。また、旗袍にマント、ショール、ウエスタンハットなどもおしゃれな衣装となりました。

拡大する旗袍の概念

1940年代前半の旗袍には、立領、大襟、スリットなど、旗袍の3つの特徴的な要素がなく、旗袍とは見なされません。それでも、人々は旗袍だと思いました。そのため、旗袍はだんだん広い概念をもっていきました。

学生服、労働者服、普段着、 フォーマルドレスなどは、すべて旗袍の形と名前を採用していました。しかし、用途によってスタイルが異なりました。フォーマルドレスの旗袍は丈が長く、装飾はエレガントでしたが、制服の旗袍はシンプルなエレガントさをもっていました。

夏になると、女性の工場労働者たちは丸い穴のめだつシンプルなノースリーブの旗袍を着ました。この旗袍は立領なしか低い領。ラインにゆとりがあって、膝丈。短パンを中に穿いたので、さらに動きやすかったようです。

レディメイド旗袍とカスタムメイド旗袍

旗袍の概念が広くなると、需要も大きくなっていて、1940年代後半には、既製服で製造販売される旗袍が市場に出回っていました。保存されている当時の既製旗袍は、メーカーや店舗の商標が大きくラベル表示されています。

旗袍はフィット感の要件が高いですから、大量生産よりもカスタムメイドの方が人気があります。店頭で販売されているカスタムメイドの旗袍も、サイズを少し調整することができます。

既製旗袍を購入する人は、ほとんどが裕福な家庭のファッショナブルな女性でした。保守的で貧しい家庭の人は、20世紀末になっても自分で作っていたものです。

ちなみに、1940年代後半は、布地を縫う機械縫製業(アパレル産業)も急速に発展しました。

結論

1940年代は、抗日戦争と国共内戦再発の関係で、どのように旗袍が着られていたのか、どんな旗袍があったのかを知ることが難しかったのですが、なんとかまとめてみました。

戦時の物資不足と戦後の織物業停滞のために、1940年代に簡易な装飾品が増えたのは、旗袍を少しでも綺麗に見せるための工夫ですね。

ダーツ、肩縫線、接袖の導入された時期が詳しく書かれていました。

  • 归拔…1930年代
  • 肩縫線…1930年代後半
  • ダーツ…不詳(諸説の傾向では、1930年代後半に腰ダーツ・胸ダーツ、1940年代に腋下ダーツ・後腰ダーツ)
  • 接袖(装袖)…1940年代中頃(
しゃんつ
しゃんつ

肩パッド(垫肩)とジッパー(拉链)が1940年代に導入されていた点は驚きました。ジッパーを使うのは難しいので胸あたりじゃなくて、横でしょう。てっきり、2000年頃からの手抜き旗袍の具現化と思っていたのですが…。

ぱおつ
ぱおつ

旗袍の立領が取り外しできたのは1920年代頃からだと思っていましたが、私の勘違いか、1940年代の話だったのですね。

さて、1950年代にかけて旗袍は輝かしい時代だったといわれます。一旦はファッションの多様化によって旗袍の地位は落ち込みます。それでは、どのように旗袍は復活していったのでしょうか。

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