旗袍(チーパオ)の意味や歴史をさぐるチャイナドレス博物館

旗袍(チーパオ)に特化した「旗袍的新故事」を作りました。旗袍は、世界で最も有名な民族衣装で、日本ではチャイナドレスの名前で親しまれてきました。

「旗袍的新故事」では、旗袍の意味や歴史をくわしくまとめています。いずれは、写真を集めてチャイナドレスのウェブ博物館へ育てていきたいです。イラストや写真の提供、説明に対する質問など、ご協力をお願いいたします。

ウェブサイト「旗袍的新故事」には次のような特徴があります。

  • 旗袍の意味や歴史から書き起こす
  • 服の形から旗袍の特徴を説明する
  • 旗袍の古い画像資料を集める

などです。

よく、エッセイやイラストをかかれるときの参考にしてもらっています。

チャイナドレスのイメージ

旗袍といっても、チャイナドレスという言葉を思い出す方々が多いです。

チャイナドレスには、どんなイメージがあるでしょうか。インスタグラムで尋ねてみました。

チャイナドレスのイメージ

チャイナドレスにもつ印象は、チラリズムやセクシーとなるようです。色は赤色。映画は「花様年華」と、回答者によって、いろんなイメージがあるとわかります。

パンダの回答をくださった教え子は「チャイナドレス、高校の時コスプレで着ました」と、文末にもパンダのイラストを…(笑)

最近の旗袍

最近は、中国でも中国人華僑のあいだでも、旗袍を着る機会は減っていて、旗袍はイベント衣装になっています。民族衣装というより、伝統衣装とみる方が無難でしょうか。

清朝期や民国期をあつかった中国や中華圏のドラマや映画で、旗袍は今でもよくみかけます。服の時代考証の水準は、ドラマや映画ごとに左右されますが。

しゃんつ
しゃんつ

旗袍は、スーツをのぞけば世界で最も知られた民族衣装です。洋服は世界に散った衣装ですが、旗袍は世界が結集した衣装です。

ぱおつ
ぱおつ

旗袍・アオザイ・着物・チョゴリなどの民族衣装は、それぞれ何らかの形で洋服化しました。世界の民族衣装のうち、かなり激しく洋服化したのが旗袍です。

旗袍の特徴

旗袍(チーパオ)はチャイナ服の一種です。チャイナ服には旗袍のようなワンピースのものもあれば、漢服のようにツーピースのものもあります。

どんな服や衣装でもそうですが、チャイナ服はツーピースとワンピースに分かれます。ふつう、ファッション業界や服飾史研究では、おもな外衣が上下連続か上下分断かで区別します。スリーピース以上はアンサンブルとして、一旦は除外。詳しくはこちらをご覧ください。
ファッション辞典にみるチャイナ服と旗袍
旗袍は2010年代から日本でよく使われはじめた言葉です。カタカナ読みのチーパオも、とくに最近はよく使われます。2010年ころはチャイナドレスとよくよばれました。ファッション辞典や服飾辞典・服飾事典から、旗袍の言葉の使われ方や変遷をみてみましょう。

今では、旗袍はワンピースのドレスとして着られています。よく「旗包」と誤記されますが、あながち間違いではありません。身体を包む衣服を意味するのが「袍」(ぱお)ですから。

清朝期(清代)には官人や貴族の朝服として、ズボンとあわせてツーピースに着られていました。

スカートとあわせて着た場合もあります。よく、ズボンとの併用は満族、スカートとの併用は漢族と大別されます。

でも、次の写真は漢族女子のズボンとの併用です。

上衣下裤(上に袍、下にズボン)。色つけで画像を加工しています。孫彦貞『清代女性服飾文化研究』上海、上海古籍出版社、2008年、63頁。

上衣の丈だけみると、漢族のほうが短めでした。

上衣の形からみると、清朝期の満族が着ていた長衫(長袍)・旗袍と、漢族の着ていた袍に、基本要素の違いはありません。

次の旗袍の特徴をご覧ください。そのうえで、組み合わせとしては、満族風の上衣下裤(下はズボン)か漢族風の上衣下裙(下はスカート)に分かれるだけです。

旗袍の特徴(基本要素)は、次の4点です。

  1. スリット(開衩)
  2. 立領(たてえり、詰襟、チャイナ・カラー)
  3. 大襟(だいえり、斜め開きの襟)
  4. チャイナボタン(首→右肩→右脇腹へ規則的な間隔で留める)
ぱおつ
ぱおつ

上に書いた旗袍の4要素は清朝期からあります。4つの要素のうち、旗袍の魅力といえば〈1〉のスリットや〈2〉の立領(ハイカラー)です。大襟は漢服その他のチャイナ服に多いです。

旗袍という言葉は清朝期になかったようですが、1920年代に整備された服制のもとで正式な名称となりました。つまり、法的な根拠をもちました。「旗袍の言葉と形態・構造」で後述します。

しゃんつ
しゃんつ

「旗袍は100年の歴史をもつ」と言われるのはそのためです。

前身頃の開き方を襟といいます。斜め開きの大襟に対し、対襟は真ん中で開いたものです。身頃とは衿や袖と区別し、上衣が胴体を包む部分の総称。身体の前部を包む部分は前身頃、背部は後身頃(田中千代『服飾事典』同文書院、1969年、822頁)。日本語では打ち合わせともいいます。

旗袍をかんたんにまとめますと、中国清朝を支配した女真族(満族)の長い衣装が呼称の由来です。漢民族は満族を旗人とよんでいました。このことから、旗袍の意味は旗人の袍(ロングの長着)となります。

でも、最近では丈がかなり短いものも増えています。また、袖の短いものも増えて、長袖か中袖の旗袍をあまり見かけなくなりました。

とにかく旗袍は、1920年代・1930年代にいろんな洋裁技術を取り込んで、現在にいたる旗袍の原型が形成されました。

旗袍の言葉と形態

旗袍とは何かを考えるとき、旗袍の言葉と形態を分けることが大切です。なぜなら、言葉で意味することと、形で意味することは違うからです。

旗袍という言葉は清朝期になかったようですが、形の根拠となる要素は清朝期にありました。そして、満族であろうと漢族であろうと蒙族であろうと、旗袍の要素をそなえた服を着ていました。

同じ形の服の名前を民族によって分けることは、度がすぎれば民族差別につながります。

ぱおつ
ぱおつ

おおざっぱに、旗袍は満族の服だというのはOKですが、清代に満族だけしか着なかったととらえるのはNGです。

女真族は、清朝を樹立した頃に満州族と改称し、辛亥革命(1911年・12年)で満族と改称しました。以下では満族で統一します。

しゃんつ
しゃんつ

とにかく、言葉と物は分けたいところです。

言葉だけを重視すると、物を軽視することになり、物を重視すると、言葉を軽視することになります。これまでのファッション研究は言葉を重視しすぎました。

このサイトでは言葉にふりまわされず、衣服の形態、つまり物を重視します。そして、旗袍の言葉と形態をできるだけバランスよく紹介しています。

言葉

ぱおつ
ぱおつ

旗袍は中国語表記です。日本漢字でも同じです。英語表記は「qipao」、ピンイン(発音記号)は「qípáo」。カタカナでの読み方はチーパオかチィパオ。英語文献では「cheongsam」(長衫)、つまり長い着物と表記されることも。

しゃんつ
しゃんつ

日本では、チャイニーズ・ドレスじゃなく、チャイナドレスとよくいわれます。だいたい、チャイナドレスの正式名称が「チーパオ」「旗袍」だと考えてください。

中華民国議会では旗袍の言葉の是非がたびたび議論されました。旗袍という名前が旧政府の清朝を想起させるという理由からです。

しかし、長衫や長袍など、候補に挙げられた呼称では男性衣服名と混同するという理由で、結局は旗袍で統一されていきます(1920年代初頭)。1929年4月に国民政府が「服装条例」を公布し、旗袍が女性の礼服として正式に決められました。

清朝期の旗袍は男女同型のうえ、長衫という言葉でだいたいまとまっていたようです。上に述べたように、1929年の「服装条例」では、男性用に長衫・長袍などの名前をあて、女性用には旗袍をあてました。

その前後、男性用の長衫・長袍は、ズボンと併用するツーピースが主流のままで、女性用の旗袍がワンピースへと変わりました。このことが男女間の決定的な違いです。そして、女性用(つまり旗袍)のエリ(領・襟)や丈の長さがしばしば変わるようになりました。

語源

一応の語源を書いておきます。清朝期、満族の人たちは八色の軍旗に分かれていて、一般に「八旗」と呼ばれる軍人たちが分割統治していました。八旗のメンバーは略して「旗人」と呼ばれていました。それで彼らが着ていたドレス(袍)は「旗袍」と呼ばれました。

次に普遍的な形態を確認します。

形態

残念なことに、ネットで旗袍のイラストを探しても、要素(基本形)をふまえず、原型をとどめていないものが多いです。もはや旗袍とよべないイラストまで流布しています。

次のツイートは的を射ています。

しゃんつ
しゃんつ

胸をむき出しにするために襟を省略して、首紐で支えるイラストなんかはチャイナドレスあるあるです。

ぱおつ
ぱおつ

いちばん強調されるのがスリットだったとしたら、残念。

さて、旗袍が清朝期からどれほど変化しても、変わらない点もあります。先にもふれましたが、次の4点は変化していない普遍的な要素です。

  1. 立領
  2. 大襟(応用形に八字襟)
  3. スリット
  4. チャイナボタン

ただし、最近では、4つ目のチャイナボタンは、ファスナーに代替されることが増えています。といっても、飾りだけのボタンとしては残っています。

丁寧に旗袍の言葉と形態をおさえていくと、ウィキペディアの説明が間違っていることが分かります。ウィキペディアでは「チャイナドレス」という項目を設定して次のように説明しています。

チャイナドレスは満州人の衣装「旗装」をモデルに改良して、20世紀以降西洋の服の製法を吸収し、定着したものである。

まず、「旗装」をモデルに「改良」したと書いてありますが、どう改良したかはまったく説明されていません。ですから、「西洋の服の製法を吸収」した内容も書いていません。

参考文献が日本語での研究者による社会史ばかりに偏っているので、仕方がありませんが。

形を無視して旗袍を考えるとウィキペディアの捉え方になります。満族の民族衣装が漢族の民国期に民族衣装に定着したということが逆説だと考えてしまうわけです。形の定着は清朝期からあったと考えるべきです。

満族の民族衣装にこだわりすぎると、広い意味で中華圏の民族衣装のひろがりを見失ってしまいます。

このページの冒頭に書きましたように、旗袍は中国人華僑の人たちによって世界中で着られてきました。この意味で、旗袍は、中華圏の民族衣装というぐらいで理解しておくのが無難です。大切なのはいろんな旗袍を見て・着て楽しむことです。

旗袍の歴史

旗袍の歴史は大きく4段階にわかれます。

旗袍の歴史
  • 清朝期
    4要素の形成
    旗袍の形態が4要素で形成されました。17世紀ころから。
  • 民国期(近代)
    旗袍の洋服化
    形態の4要素は維持され、だいたい、1920年代にスリム化、1930年代・1940年代にボディコンシャス化。丈の上下や領の高低やスリットの深浅などがコロコロと変わりました。
  • 現代
    各部の高低・深浅の変動
    形態の4要素は維持。スリムとボディコンシャスは前提となりました。高い領と膝丈が流行。1960年代(とくに香港)から2010年ころまで。
  • 目下
    4要素の崩壊
    4要素のうち、大襟・八字襟とチャイナボタンの2か所が飾りだけになり、後身頃中心にファスナーが使われています。2010年代から。

旗袍の洋服化は、スリム化とボディコンシャス化の二段階で進みました。旗袍のスリム化がボディコンシャス化を促しました。

このうち、スリム化は3点から進みました。

  1. 綿入の消滅
  2. シルエットの変化
  3. 接袖の登場

つづくボディコンシャス化は、ダーツや肩縫い線の導入が中心でした。

旗袍の洋服化の完成時期について諸説があります。くわしくはこちらをご覧ください。

接袖が登場し、連袖が消えて行ったとき、チーパオにはお行儀の良さを得て、運動性を失いました。

清朝期の旗袍

清朝期に女真族(満族)は、旗袍をズボンに組み合わせて着ていました。

この時代の旗袍は、綿入(わたいれ)や袷(あわせ)の習慣がありました。そのため、ゆったりとした布の量感をもっていました。

綿入は表地と裏地の間に綿を詰める工夫です。袷は表地と裏地をあわせる工夫です。いずれも、防寒用・保護用に使われました。

詳しくはこちら。

洋服の民族衣装への影響

中国、朝鮮、日本、ベトナムでは古代中国から衣服(主に漢服)の影響を強く受けてきました。

そのうち、朝鮮と日本では、それぞれツー・ピースおよびワンピースの形態を採った衣装として一部の人々に展開してきました。チマ・チョゴリ(치마・저고리)と着物(和服)です。

これらはいずれも20世紀になってから、洋服からの影響を受けて民族衣装として再編成されたものです。チョゴリ、着物(和服)、アオザイ、旗袍を貫通する決定的な変化は綿入の消滅でした。くわしくは姉妹サイトの記事をご覧ください。

このうち中国の旗袍は、ベトナムのアオザイ(Áo dài、襖)と同じく洋服の影響を強く受け、身体のラインを強調する裁縫技術が積極的に導入され、1世紀前の姿とはずいぶん違うようになりました。他民族衣装への旗袍の影響は姉妹サイトの記事をご覧ください。

民国期旗袍の変化

曲線造体・緊身的方向の発生:スリム化とボディコンシャス化

民国期に旗袍は漸次的に洋裁(西式裁縫)を採り入れました。1910年代・1920年代には清朝期旗袍に対し細くなりました。綿入が消滅したので、旗袍が柔らかく見えるようになります。

しかし、1930年代からは旗袍の緊密性や拘束感が強まります。体型が如実に表れ、身体に密着する立領と身頃が際立ってきます。

1930年代のとくに後半から1940年代にかけての時期は、旗袍の黄金時代といわれます。

旧旗袍は長袖でしたが、新旗袍の袖の長さは色々で、袖無や半袖が多く長袖は少数でした。新旗袍は1910年代半ばに上海で流行した後,1920年代から1940年代にかけて全国的な広がりを見せました。特に広東省広州市辺りでは爆発的な人気を呼びました。

1930年代キャバレー内で写された5人のダンス・ホステスたちの写真。 A photo of five dance hostesses taken inside a cabaret in the 1930s. via Beneath the Glitz and Glamour: The Untold Story of the “Lancing” Girls | BiblioAsia

それからというもの、袖の長さ、立領の高さ、開衩の深さ、丈の長さ、柄の豊富さ、身体密着度などが旗袍の多様性を構成していきました。これらの傾向は地域と時期によって異なります。1930年前後の代表的な旗袍は、北京拠点の京派と上海拠点の海派の違いが有名です。

いずれの旗袍も綿入が消滅しましたが、生地柄は後者の方が西洋風に華美で、また腕と足の露出を強めていました。新しい旗袍が「曲線造体」(身体に沿う曲線、スリム化)で構成され、「緊身的方向」(身体密着的な方向、ボディコンシャス化)に形成されたのは、欧米の裁縫技術を取り込み、従来よりも立体的に作られるようになったからです。

接袖(セット・イン・スリーブ)の導入

旗袍が導入した洋裁技術の一つに接袖が挙げられます。

旧旗袍は肩と袖が水平に連なっていて(連袖または平連袖)、衣服形態上に肩と腕という区別が存在しませんでした。

1940年頃から新旗袍はセットイン・スリーブを採り入れ、肩と袖が別々に裁たれた後に縫合されるようになりました(接袖)。肩・袖の裁縫方法が変化したことは新旧の間にある地味ですが決定的な変化です。

左)実験衣1(民国期型旗袍)、右)実験衣2(現代旗袍)。いずれも蔡蕾(atelier leilei)作成。

上の写真、むかって左が連袖の旗袍、むかって右が接袖の旗袍です。

連袖旗袍と接袖旗袍の違いは次の記事にくわしく書いています。

連袖(平連袖/平肩連袖)旗袍の着用イメージは次の記事をご覧ください(@アトリエ・レイレイ)。

連袖旗袍に運動性が高い点は次の記事にくわしく書いています。

セットイン・スリーブの導入によって、袖部分をつけないノースリーブも流行しました。次の絵は祥英という画家の描いたミス上海の肖像画です。

祥英という画家の描いたミス上海の肖像画

祥英という画家の描いたミス上海の肖像画(白雲『中国老旗袍―老照片老広告見証旗袍的演変―』北京、光明日報出版社、2006年、208頁)

単色の旗袍は1920年代・1930年代の上海の主流カラーで、とくにスカイブルーのチャイナドレスは、いろんな場面で風景を占めていました。開放感のあるノースリーブに対して、隠ぺい感のあるハイヒールシューズと少し覗かせた足はモデルをひときわ目立たせてインパクトがあります。

乳房の強調とダーツの導入

ボディコンシャス化の前提には、乳房を強調するという美意識がつくられる必要があります。

中国には、ヨーロッパ女性のコルセット解放や乳房の強調化の影響がありました。また、立体的なブラジャーを輸入するようになりました。女性の衣装は束胸から放胸へと進みました。

詳しくはこちら。

旗袍が導入した洋裁技術の一つにダーツが挙げられます。脇ダーツ、腰ダーツ、胸ダーツが着用者の好みや着用状況に依って選ばれる場合がありました。接袖によって女性の身体にフィットしていった旗袍は、ダーツをとりいれることで、スリム化を超えて極端なボディコンシャス化に向かいました。

詳しくはこちら。

民国期旗袍の周辺事情

学生旗袍

女子学生の制服の場合、旗袍はスリム化しましたが、ボディコンシャス化するまでに至りませんでした。

次の写真は1930年代上海の女子学生たちを写したものです。

旗袍を着た女子学生たちの写真(上海、1930年代)。

旗袍を着た女子学生たちの写真(上海、1930年代)。Pictured are female students in 1930s Shanghai. via Changing Fashion of Chinese Women in Last Century – All China Women’s Federation

上海とはいえ、この時代の学生たちの旗袍の丈はまだまだ長いです。

しかし、スリットは手前一番右の女子学生の場合、膝頭直下まで入っています。学生としては長い気がしますが、この原因が軽い運動を学校でするからか、上海だからか、どちらかは分かりません。

出典元によると、

qipao was gradually modified to highlight curves of women’s chest, waist and hips

Women’s Foreign Language Publications of China

ですから「旗袍は変化し、女性の胸・腰・尻の曲線を強調していった」ということです。

旗袍併用の肌着・雑貨の変化 : 映画「ラスト、コーション」

1940年代まで旗袍の裾丈は足首から膝までを上下しました。

脚を見せるという選択肢が旗袍に備わったため、当時は主として防寒目的で膝下を覆うストッキングやタイツが穿かれるようになりました。同じ目的で外套も着られ始めました。脚の露出はハイヒールのパンプスが好まれました。

映画「ラスト・コーション」でタン・ウェイが旗袍を脱ぐ場面。チャイナボタンを一つずつ外していきます。中からスリップ・ドレスが見えています。

映画「ラスト・コーション」でタン・ウェイが旗袍を脱ぐ場面。チャイナボタンを一つずつ外していきます。中からスリップ・ドレスが見えています。LUST|CAUTION ©2007 Haishang Films

上の写真はアン・リー監督の映画「ラスト、コーション」(Lust|Caution, 2007)の一場面です。1942年の上海が舞台です。

タン・ウェイ(湯唯/Tang Wei)演じるワン女士がトニー・レオン演じるイー氏の前で旗袍を縫いで行く場面です。チャイナボタンを一つずつ外していき、中からスリップ・ドレスが見えるようになります。

さらに旗袍を捲ると、次の場面のように、彼女はガーター・ベルトとストッキング(合わせてガーター・ストッキング)を穿いていることがわかります。この直前の場面で、彼女のストッキングは後が縫われているシーム・ストッキング(フルファッションド・ストッキング)でした。

タン・ウェイが旗袍を捲ると、中からガーター・ストッキングが現れました。

タン・ウェイが旗袍を捲ると、中からガーター・ストッキングが現れました。LUST|CAUTION ©2007 Haishang Films

ラスト、コーション」のヒロインタン・ウェイは1万人の中から選ばれました。候補にはチャン・ツーイーやスー・チーらもいました。

当時の旗袍を着て演技する難しさをタン・ウェイは次のように話しています。

チャイナドレスを着こなすには、歩き方や座り方だけでは不十分で、その背景にある文化を理解しなければ駄目なんです。先生からは昔の人たちの日常生活、たとえば歯の磨き方などまで、いろいろなことを教えていただきました。それから、膝に輪ゴムを巻いて、脚が開かないように動く練習もしましたね(笑)。普段の私はボーイッシュな格好をしていることが多く、チャイナドレスはおろかスカートさえめったにははかないんです。この撮影を通じて、自分の少しは女性として成長したかなと思います。

出典 張一帆編『聴く中国語』日中通信社、第74号、2008年2月号、5・6頁。

チャイナボタンの着脱やガーター・ストッキングの着脱は結構手間のかかるものです。

ボタンに関しては1940年頃からはチャイナボタンの裏側にホックを付けるようになりました。1960年頃からは、ファスナーが一般的となり、チャイナボタンはホックの時期と同様に見せかけの物になっていきます。

もちろん、すべてがゼロになった訳ではありません。今でも手作業でチャイナ・ボタンを作る人たちもいます。妻もその一人です。ボタン制作の様子はアトリエ・レイレイの日記をご参照ください。

チャイナボタンは手作業で作るには小さい割に手間暇かかるので、現代旗袍ではほとんど機械製で、着用時にボタン留めではなくファスナーに代替されています。

また、ガーター・ストッキングは1960年代後半頃からパンティ・ストッキングに代替されていきます。

戦時の物資不足

民国海派旗袍赏 : 南京金陵大学学生,摄于1940年

民国海派旗袍赏 : 南京金陵大学学生,摄于1940年 via 相册_POCO空间_POCO网(POCO.CN)

上の写真は、1940年に撮影された南京金陵大学学生たちの海派旗袍だと転載元に説明されています。

抗日戦争(日中戦争)時、物資欠乏と節約強要は中国も日本も同じでしたが、旗袍には国産布を用いたため衣服の材料生地は不足しませんでした。とはいえ、かなり装飾が質素になっています。

なお、私の妻が2015年に雲南省博物館で開催された海派旗袍展に行きました。その感想が写真付きで「海派旗袍展-雲南省博物館 | atelier leilei」に詳しく述べられていますので、ご参照ください。

近代香港への旗袍の影響

香港では、裕福な上流階級の妻や娘、映画女優や歌手、それに売春婦など、色んな女性が新しく用意されたトレンドを受け入れ、旗袍を着ていきました。

テーラーやドレス・メーカーたちは、顧客とともに新しくて壮大なデザインを作っていきました。

① 1938年金谷白蘭地月份牌畫(Golden Valley Brandy calendar poster, 1938.) ② 1920至1930年代徳国徳利香水肥皂廠月份牌畫(Calendar poster for Georg Drall, a soap manufacturer from Germany, 1920s - 1930s.)

① 1938年金谷白蘭地月份牌畫(Golden Valley Brandy calendar poster, 1938.) ② 1920至1930年代徳国徳利香水肥皂廠月份牌畫(Calendar poster for Georg Drall, a soap manufacturer from Germany, 1920s – 1930s.) via Inspirational Thoughts: Another Display of Old Hong Kong ©Inspirational Thoughts

旗袍は新しいファッション・アイテムとして、1920年代・1930年代の上海、広東、香港で大々的なプロモーションが行なわれました。

とくにカレンダー・ポスターが外資系企業や中華系企業に依って作られ、旧暦年末に顧客にプレゼントされました。広告ポスターも多種多様に旗袍を着た女性たちをスケッチしています。

チーパオや洋服を着た女性たちを描いた広告ポスター via 協興隆老広告 11 Old Advertisement of XienXing Long, 11st series.

旗袍や洋服を着た女性たちを描いた広告ポスター via 協興隆老広告 11 Old Advertisement of XienXing Long, 11st series.

新奇なドレスを着た美しい女性のイメージは、これらの広告カレンダーや広告ポスターの中で最も人気のある主題となり、旗袍はそれを描く画家たちの間でも大変な人気を呼びました。

こうしたポスターは、後に衣服を学ぶ学生たちにとって重要な画像ソースとなりました。

近代台湾への旗袍の影響

20世紀前半の台湾では、台湾総督府からの圧力と中国大陸への敬意に挟まれた形で服装が変化していきました。

1911年以降、辛亥革命の影響を受けて留学帰りか高学歴の若者を筆頭に、男性は断髪にスーツ、女性の場合も断髪にワンピースとして着る西洋風ドレスや、ジャケットにスカートやズボンというツーピースが流行し、革靴も普及しました。

1920年代になると一般的に男性の大半と子供が西洋風の服装を取り入れ始めました。

旗袍が大陸や香港経由で台湾へ普及しはじめたのは1930年代になってからのことです。こうして、戦時期には西洋風、伝統的ツーピースとともに旗袍は選択肢の一つとなっていきます。

1937年に撮影された盧山婦女談話会の写真。左から3人目が張維楨、4人目が宋美齢、右から2人目が呉貽芳、1番右が高君珊の各女士。

1937年に撮影された盧山婦女談話会の写真。左から3人目が張維楨、4人目が宋美齢、右から2人目が呉貽芳、1番右が高君珊の各女士。 via 羅麥瑞主編『旗麗時代―伊人、衣事、新風尚―Qipao : memory, modernity and fashion』國立臺灣博物館・輔仁大學織品服裝學系、2013年、36頁・37頁。

伝統的ツーピースとは清朝期漢族のツーピース衣裳で中国大陸のみならず台湾でも着用されていました。植民地化以降にも洋服との共通性から普段着として着られ続けられました。

1920年代には洋服の影響から身体に沿った形へ生地が減量し、先述のように1930年代後半以降は上海からの影響で旗袍が増えていきます。

台湾総督府による同化政策が強化されたのは1936年以降のことです。とくに旗袍では特有の布製ボタン(チャイナボタン)を別のボタンへ付け替えるよう強制されました。

しかし、台湾女性は従来通り着用を続けて抵抗し、総督府は1942年頃に諦めました。

Chi-Chien Sewing College の教師と生徒(台北、1935年)。1940年代に女性雑誌が普及し、海外の裁縫技術が多種にわあり導入され、この写真のように西洋ファッションは日常着として台湾女性たちに浸透していきました。そして伝統的な台湾ドレス・日本ドレスは減退しました。

Chi-Chien Sewing College の教師と生徒(台北、1935年)。1940年代に女性雑誌が普及し、海外の裁縫技術が多種にわあり導入され、この写真のように西洋ファッションは日常着として台湾女性たちに浸透していきました。そして伝統的な台湾ドレス・日本ドレスは減退しました。 Courtesy of Mr. Li Fu-li via Claire Roberts, ed., Evolution and revolution: Chinese dress 1700s-1990s, Powerhouse Publishing, 1997, p. 82

和服は式服の一種として用いられる場合があったようで、総じて台湾では、19世紀末からの政治的背景のもとで「中・洋・和」の服装混合現象が生じました。

台湾における「中・洋・和」服は、洋服>旗袍・漢服>和服の順に多く着用されました。

旗袍は漢服同様に日本人から蔑視され、作法の強要が付随する和服は嫌われ、洋服には抗日の意味合いと世界標準への平等性が期待されていたわけです。

以上、台湾に関する記述は、岩本真一『ミシンと衣服の経済史―地球規模経済と家内生産―』オンデマンド版、思文閣出版、2017年、111頁・112頁を引用・要約しています。

戦後の旗袍 : 中国大陸・香港・台湾

中国大陸

1950年代は絹や綿の生地で半袖や長袖の旗袍が愛用されていました。丈は膝頭と踝のちょうど間くらいの落ち着いたものが多く着られました。1950年代は旗袍の歴史の最後の華でした。

他方で抗日戦争から国共内戦に至る過程で女性の軍装化が進み、藍色または藍灰色の干部服、列宁装(列寧装)、棉大衣などが好まれました。特に列宁装は中性化された女性服だといわれました。

これらはいずれも折り領や折った立領になっていて、多くはセットイン・スリーブ。領は旗袍とは異なった形で西洋服の影響を受けたものでした。

とくに文化大革命によって旗袍は概ね禁止され、その上半身部分をジャケットにしたチャイナ・ブラウスが下衣のズボンとともにツーピースとして普及します。

チャイナ・ブラウス : 基本は旗袍 Balzac and the Little Chinese Seamstress ©2003 UCV, LLC. ©2003 United China Vision.

文革期農村の男女を題材にしたダイ・シージエ(戴思杰)監督の映画「小さな中国のお針子」(巴爾扎克与小裁縫Balzac Et La Petite Tailleuse Chinoise)では上のような衣服が登場します。

チャイナ・ブラウスにゆったりしたズボンのツー・ピース Balzac and the Little Chinese Seamstress ©2003 UCV, LLC. ©2003 United China Vision.

これは上の場面のように2部構成が念頭に置かれ、文革の指導方針通り運動性を確保しました。ブラウスも機能性を確保するために、接袖では無く連袖になっている点に注意してください。

香港

他方、香港の旗袍はどうだったのでしょうか。

1950年代・1960年代に、旗袍はとても人気が出て、さまざまな年齢の女性や外を歩く全ての女性たちが少なくとも1着か2着の旗袍を衣装家具に持っていました。10代学生、事務員、主婦、ウェイトレス、職業婦人たちは、自分の地位にふさわしい旗袍様式を見つけていきました。

最も有名なスタイルの1つは、ハリウッド映画「スージー・ウォンの世界」(The World of Suzie Wong /1960)でスージー・ウォンを演じたナンシー・クワン(Nancy Kwan/關家蒨)の着たミニの旗袍です。

ナンシー・クワンが演じたスージー・ウォンの黒色ミニの旗袍。

ナンシー・クワンが演じたスージー・ウォンの黒色ミニの旗袍。 via The World of Suzie Wong (1960) | Pretty Clever Films

これをきっかけに、香港のエンターテインメント業界の女性たちは、とてもタイトな旗袍を着るようになり、深いスリットから脚や輪郭が露わになりました。テイラーたちは、腰と尻の周辺部分を補強する依頼を多く受けました。笑ったりくしゃみをしたりして自分の着る旗袍が裂けるのを止めたかったからです。

旗袍には反対者たちもいました。

1960年代初頭、香港社会の保守的なメンバーたち、女性団体の指導者たち、そして宗教団体は、保守的な服装を促進するキャンペーンを始めました。高いスリットを持つタイト・フィットな旗袍を避けるように女性たちに勧めました。

出版社の報道では、ナイトクラブで働く女性の一部がスリットにファスナー(ジッパー)を縫いつける折衷策を講じ、スリットの高さを状況に合わせて調節できるようにしました。

1960年代から1970年代にかけて、香港では旗袍のピークを迎えました。その後、中後年女性のみが着用するようになり、フォーマルなイベントでは旗袍に合った素材の洋服ジャケットを併用するようになりました。

次の写真は1960年代の香港を舞台とした映画「花様年華」の一場面。数十着もの旗袍が出てくる映画として有名です。

ウォン・カーウァイ『花様年華』©2000 by Block 2 Pictures Inc.

香港では立領が高く、緊縛的といえるほどスリムでボディコンシャスな旗袍がはやりました。

袖は接袖(セットイン・スリーブ)が主流です。丈は膝頭が隠れる程度で、座ると膝頭がちょこんと見えます。スリットは今ほど深いものではなく、太腿の中ほどまで切り込まれています。

といっても、民国期旗袍よりも丈が短くなっているので、スリットはかなり深いように感じてしまいます。

スリットは今ほど深いものではなく、太腿の中ほどまで切り込まれています。©2000 by Block 2 Pictures Inc.

この映画に出演した女優、レベッカ・パン(潘迪華)は「当時のチャイナ・ドレスというものは10cmくらいの高い領がほとんどだった」と述べています。主演女優のマギー・チャン(張曼玉)は映画の撮影を振り返って、次のようにインタヴューに答えました。

チャイナ・ドレスは女性を美しく見せる服。女性特有の美しいライン、その美しいラインをくっきり見せることができる。領の高い部分とか。最初は慣れなかった。ドレスはきついし、ハイ・ヒールも辛い。髪のセットや化粧も長かった。

出典 王家衛『花様年華』 2000 by Block 2 Pictures Inc.

チャイナ・ドレスは女性を美しく見せる服。

チャイナ・ドレスは女性を美しく見せる服。王家衛『花様年華』 ©2000 by Block 2 Pictures Inc.

1950年代香港スタイルの旗袍にはさらに細かい特徴があったことも分かってきました。

ウォン・カーウァイ『花様年華』(王家衛『花樣年華』/Wong Kar-wai, in the mood for love ©2000 by Block2Pictures Inc.

「花様年華」でマギー・チャンが着た旗袍を紹介したページもご覧ください。

香港の著名な旗袍デザイナー楊成貴氏によると、個人の体型(とくに腹部と胸部)に合わせてダーツに曲線を与えます。また、型の形によって傾斜度とカーブを調整します。そして袖山を低くし、腕の運動量を増やします。腕の運動量が増えると動作によって身頃の引き攣りが減ります。

この点の詳細は妻の記事をご参照ください。

ウォン・カーウァイ『花様年華』でマギー・チャンが意外に活発に動き回っていたのは、こういう細かい技巧が施されていたからかもしれません。

台湾

抗日戦争終了後に日本人は台湾を去りましたが、50年間にわたる植民地支配の影響は直ちに解消されたわけではありません。

その上、国民党と共産党による内戦の結果、蒋介石主導の国民党政権が台湾に逃亡してきました。そして、それまで居住していた台湾人と中国本土から新しく到着した人々の文化と行政の違いが衣装に反映されていきます。

1940年頃の姜蘊華(左)。中国瀋陽にて撮影。

1940年頃の姜蘊華(左)。中国瀋陽にて撮影。 Courtesy of 胡季明女士 via 羅麥瑞主編『旗麗時代―伊人、衣事、新風尚―Qipao : memory, modernity and fashion』國立臺灣博物館・輔仁大學織品服裝學系、2013年、48頁。

中国式の衣服は、今日のように急速に変化しませんでした。

そのため、1945年以降の写真は優雅に目立つ中国大陸の女性と、改装された伝統的な服装の台湾島の女性が共存し、日本人と西洋人の衣服も重なっていきます。両女性間の服装の差異は短期間だけ続きました。

(上)1962年に撮影された鄭雪霏氏。米国留学時に搭乗した船にて。 Courtesy of 鄭雪霏女士(下)姜蘊華・胡崢嶸夫妻。台中公園にて撮影。 Courtesy of 胡季明女士。

(上)1962年に撮影された鄭雪霏氏。米国留学時に搭乗した船にて。 Courtesy of 鄭雪霏女士(下)姜蘊華・胡崢嶸夫妻。台中公園にて撮影。 Courtesy of 胡季明女士。 via 羅麥瑞主編『旗麗時代―伊人、衣事、新風尚―Qipao : memory, modernity and fashion』國立臺灣博物館・輔仁大學織品服裝學系、2013年、48頁。

結局のところ、西洋文物の流入と大規模な工業生産の影響下で、台湾人は徐々に西洋化していきました。

当時の衣料は、1960年代から世界中で流行したナイロンのような人工繊維が台湾でも普及し、その意味での国際化が実現しました。それとともに生地柄の色やデザインは西洋的になり、特に幾何学的デザイン、チェック(格子柄)、ストライプ(縞柄)が流行しました。

現代旗袍の確立(1980年代・1990年代):中国大陸の旗袍

文化大革命が過ぎ、1980年代から旗袍(チーパオ)は今と同じ奇抜な形をもちはじめました。文革後の中国ファッション業界は春を迎えつつありました。

業界の人々は直ぐにでも旗袍の人気が出ると予想しました。社会がより寛容になるにつれ人々は美しいファッションを目指すだろうから、旗袍には流行の余地があると考えられました。しかし予想に反して旗袍は直ぐには人気が出ませんでした。

旗袍の不人気

期待に反して旗袍はなぜ不人気だったのでしょうか。その理由は2点あります。

まず、文革後の解放感は多くの中国人の目を外に向けさせたからです。人々は外部の事物を熱狂的に追求し始めました。ドレス、ベルボトムス、ヘアスタイル、フットウェア…。爪先から頭まで西洋を模倣しました。

次いで、1960年代・1970年代の中国で旗袍はほとんど禁止されたため、旗袍を仕立てられるドレスメイカーやテイラーがいなかったからです。ブロケードやサテンなど戦前期に多用されたドレス生地はほとんど無く、メーカーは新しい布を見つける努力もしませんでした。また民国期の連袖旗袍を作る技術もありませんでした。

旗袍の陳腐化

そのため旗袍の業者たちはそのラインを変更し、プリントされた派手な柄、深いスリット、袖無し、短い丈を特徴にする旗袍を作り始めました。生地の節約と裁縫の簡素化によって旗袍は陳腐な衣装になりました。

さらに、1980年代・1990年代に女性の仕事範囲は拡大し、野外活動が増えました。生活のスピードも加速し、現代社会における女性の理想的なイメージは若さと活力に満たされたものになりました。

このような結果、旗袍の形態は簡素な方向に均一化されていき、イベント衣装やレストランの制服になっていったわけです。もちろん、陳腐化したとはいえ、少し見方を変えると旗袍の強い生命力を感じることもできます。

平肩連袖は、皺が多いのは欠点だと思われがちです。しかし、上肢の運動性を高める長点ももっています。

これに対し、斜肩接袖では、弛緩の一部がかなりの皺や折れ目となり、背中や袖に引きつりを生じました。直立姿勢時に皺がない長所は運動性の低下要因にもなります。

近現代旗袍の展望

すでに旗袍は普段着としての役割を終えました。

和服史にたいする次のとらえ方は旗袍史にもあてはまります。

ヨーロッパ文明史の慣習的な見方にしたがって、戦争のはじまる前の一時期を、belle époqueと考えるなら、1930年代はわが国にとっても、まさにそのような“佳き時代”だったはずである。それは和服について、とくにそう言えるのであって、和服と洋服とが日常生活のうえで、拮抗しえた最後の時代であった。(大丸「現代和服の変貌II」142頁)

懐古的に旗袍と和服をふりかえるならば、20世紀前半の半世紀近くをかけて議論が紛糾した衣服改良の時代は、衣服形態の多様化を許した最後の時代でもありました。20世紀前半の「中服か西服か」「和服か洋服か」の議論は、その後の洋服の普及と中服・和服の洋服化によって意義を失ったわけです。

現代、連袖のもつよさが接袖の導入によって消滅し、接袖を前提とした製作段階にあります。西洋裁縫技術が前提となった現代、一方でスリム化とボディコンシャス化を実現させながら、他方で少々の運動性を確保していく、この一見矛盾した西服設計には二つの道が残されている。

  1. オーダー・メイド(注文服)における厳密で詳細な採寸という道
  2. 二つにレディ・メイド(既製服)におけるニット生地の利用や伸縮性に富んだ化学繊維の利用という道

中国か日本かを問わず、年配の方がよく口にする「仕立屋が減った」との印象は、後者が前者を凌駕していく方向をさしている。この方向は今後も継続されるでしょう。

現代旗袍の方向 : 無限の中西合併

現代旗袍は丈が短くなったことと、スリットが尻臀にまで深まってきたことが特徴です。これらの方向性は1920年代から見られた長短・深浅の延長線上にあります。

西洋と中華が一体化することをよく中西合併といいます。20世紀の旗袍史は洋服と旗袍との中西合併そのものでした。現代旗袍は今もこの枠組みに収まっています。

附属品を含めた中西合併

附属品を含めた中西合併を見ましょう。既に述べたように一つ一つ留めていたチャイナボタンの着衣作業はホックやファスナーで代替されるようになりました。

極端な事例は次の写真です。

現代旗袍の一例。大襟全体をジッパーに代替させた旗袍。ポリエステル製。

現代旗袍の一例。大襟全体をジッパーに代替させた旗袍。ポリエステル製。 © 2017 latest style, fashion design via Buy Knee Length Side Zipper Sheath Qipao Dress :

また、戦後の香港で見たように、スリット部分のファスナーももちろん、今では大襟部分全体をファスナーにしたり、後身頃を二つに割ってファスナーを付けたりと、着やすさが追求されるようになっています。

現代旗袍の一例。袖にトランスペアレントなメッシュの長袖部分は別売。レーヨン、ヴィスコース製、2017年。 © 2012-2017 cozyladywear.com. via Blue Long Sleeve Chinese Qipao / Cheongsam Dress

この写真は現代旗袍の一例です。

素材はレーヨンとヴィスコースです。商品詳細には「Hidden zipper at back」とあります。

この作品を後から見ると次の通りです。後身頃真ん中がくっきりと割れていることが分かります。襟元から腰辺りまでジッパーを上下させて着脱します。

現代旗袍の一例。レーヨン、ヴィスコース製、2017年。後身頃真ん中がくっきりと割れていて、襟元から腰辺りまでジッパーを上下させて着脱します。 © 2012-2017 cozyladywear.com. via Blue Long Sleeve Chinese Qipao / Cheongsam Dress

また、このページでは紹介しませんが、現代旗袍の中には大襟を止めて中襟にする旗袍も出ています。

そうすると領が立っているだけで旗袍と呼べるのかどうかという問題が出てきます。つまり、旗袍の定義が崩れてしまうわけです。

その意味で現代旗袍は行き場を失い、単に雑になった気がします。民国期旗袍(近代旗袍)の方が多様で深みがあったように感じます。

次に紹介する生地を含めた中西合併が行きつく所でしょうか。

生地を含めた中西合併

たとえばサンフランシスコで活躍するデザイナーのセシリア・チィエン(Cecilia Chiang)。

彼女の作品は旗袍の不変要素(立領・大襟・スリット)をベースにした作品がほとんどですが、ヨーロッパへ旅行する度に現代風の生地をよく購入します。そして仕立屋に指示して縁飾りや刺繍を加えたり、着古されたアンティークなガウンから切り取った部分を加えたりしています(以上、Saks show celebrates Lunar New Year with clothes designed by Cecilia Chiang – San Francisco Chronicle)。

一目惚れ

そんな思いをしながら、私は上海灘(SHANGHAI TAN)というブランドの次の旗袍に一目惚れしました。

アンドレ・クレージュを思わせるパイピング(縁取り、ストラップ)の使い方が格好良いです。対照性の強いストラップなので、ラフな割に余りルーズに感じません(と思うのは私だけか…)。

コントラストの効いたパイピングの毛織物製旗袍(上海灘 SHANGHAI TAN)。

コントラストの効いたパイピングの毛織物製旗袍(上海灘 SHANGHAI TAN)。Wool Contrast Strap Short Sleeve Qipao Dress via Wool Contrast Strap Short Sleeve Qipao Dress

この記事の著者
ぱおつ

二十歳ころから旗袍のかっこよさに魅了され、ポストカードや図鑑を集めてきました。旗袍の出る映画では、ウォン・カーウァイ監督の「花様年華」が一番のお気に入りです。

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