旗袍の歴史と意味をたどるチャイナドレス博物館

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旗袍の歴史と意味をたどるチャイナドレス博物館「旗袍的新故事」へようこそ。

旗袍的新故事では、世界の民族衣装で最も有名なチャイナドレスの意味・形・歴史・美を探っています。

チャイナドレスでお困りのときや旗袍愛をシェアされるとき、ぜひ当サイトを活用してくださいませ(*^^*)

中華圏の衣服だった旗袍(チーパオ)は日本でチャイナドレスとよばれています。

チャイナ服でワンピースといえば旗袍が代表的です。

ぱおつ
ぱおつ

旗袍は、スーツをのぞけば世界で最も知られた民族衣装です。洋服は世界に散った衣装ですが、旗袍は世界が結集した衣装です。旗袍は民族衣装の洋服化を代表する事例を示します。

しゃんつ
しゃんつ

旗袍・アオザイ・着物・チョゴリなど、世界の民族衣装(または伝統衣装)は、それぞれ何らかの形で洋服化しました。これらのうち、かなり激しく洋服化したのが旗袍です。

和服の洋服化、着物の洋服化は「ルーズさ回避とボディコンシャス化からみた和服の洋服化」(外部リンク)にくわしく書かれています。

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目的

旗袍的新故事は非営利目的の個人ウェブサイトです。

公費や外部資金を使わずに研究や製作を行なっています。

旗袍的新故事では、旗袍(チャイナドレス)の歴史と意味をわかりやすく説明し、旗袍のことなら何でも応えられる辞典の役割をめざしています。

また、旗袍ファンやコスプレイヤーの写真を紹介し、チャイナドレス博物館へ育てています。

ぱおつ
ぱおつ

今のチャイナドレスをはじめ、昔の旗袍のイラストや写真や映画を楽しみ、旗袍の美学に触れていただければ幸いです。

旗袍とチャイナドレスの違いですが、旗袍的新故事では最近のものをチャイナドレス、20世紀のものを旗袍と、いちおう区別していますが厳密には分けていません。詳しくは「旗袍の言葉」(後述)をご覧ください。
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特徴と使い方

ウェブサイト「旗袍的新故事」には次のような特徴があります。

  • 年代別やテーマ別に、旗袍の意味と歴史を説明する
  • 服の形をふまえ、旗袍の特徴を説明する
  • 古今東西にわたり、旗袍の画像資料を集める

などです。

具体的な内容を確認するには、パソコンなら上部メニューまたはサイドバーのカテゴリーを閲覧、スマホなら下バーの一番左にある「三」をタップしてください。

ぱおつ
ぱおつ

旗袍のエッセイやイラストをかくときによく参照されています。コスプレ用のチャイナドレスをハンドメイドして「注目された!」というメッセージも頂きます。

しゃんつ
しゃんつ

旗袍とチャイナドレスの同異、旗袍の歴史、由来、構造などを知りたい方にも、なにかと情報提供できるかと思います。

チャイナドレスのイメージと最近の旗袍

チャイナドレスのイメージ

旗袍といっても、チャイナドレスという言葉を思い出す方が多いです。

チャイナドレスには、どんなイメージがあるでしょうか。インスタグラムで尋ねてみました。

チャイナドレスのイメージ

チャイナドレスにもつ印象は、チラリズムやセクシーとなるようです。

色は赤色、映画は「花様年華」と、回答者によっていろんなイメージがあります。

パンダの回答をくださった女子は「チャイナドレス、高校の時コスプレで着ました」と、文末にもパンダの絵文字を…(笑)

このように、チャイナドレスの魅力は、チラリズムや赤色のもつセクシーさにあります。これは見る人にとっての魅力です。

では、作る人や着る人にとってチャイナドレスの魅力は何でしょうか。

  • 連袖チャイナドレスのもつ、レトロな雰囲気
  • 連袖チャイナドレスのもつ、実用性と上品さ
  • チャイナドレスのもつ、縁取り、高い襟、きれいに並んだ一列のチャイナボタン

だったりします。

最近の旗袍

最近は、中国でも中国人華僑のあいだでも、旗袍を着る機会は減っていて、旗袍はイベント衣装になっています。民族衣装というより、20世紀の伝統衣装とみる方が無難でしょうか。

清朝期や民国期をあつかった中国や中華圏のドラマや映画で、旗袍は今でもよくみかけます。服の時代考証の水準は、ドラマや映画ごとに左右されますが。

最近では丈がかなり短いものも増えています。フォーマルやパーティにはロングの旗袍、コスプレにはショートの旗袍と、だいたい役割分担が決まっています。

また、袖の短いものがかなり多く、長袖か中袖の旗袍をあまり見かけません。コスプレ用で露出度の高いチャイナドレスが広まったからです。

このため、旗袍にたいする昔からのイメージだった「チラリズム」は影が薄くなった感があります。

形態(構成要素)

旗袍の構成要素

旗袍が清朝期からどれほど変化しても、変わらなかった点があります。

次の4点は変化していない普遍的な要素です。このサイトでは構成要素と言っています。

旗袍の特徴(構成要素)は次の4点です。

  1. スリット(開衩)
  2. 立領(たてえり、詰襟、チャイナ・カラー)
  3. 大襟(だいえり、斜め開きの襟)
  4. チャイナボタン(首→右肩→右脇腹へ規則的な間隔で留める)

ただし、最近では、4つ目のチャイナボタンは、ファスナーに代替されることが増えています。といっても、飾りだけのボタンとしては残っています。

ぱおつ
ぱおつ

上に書いた旗袍の4要素は清朝期からあります。4つの要素のうち、旗袍の魅力といえば〈1〉のスリットや〈2〉の立領(ハイカラー)です。大襟は漢服その他のチャイナ服にも多いです。

4要素のうち、最後に形成されたのが立領でした。清代末期のことです。

旗袍の構成要素をクイズ式にまとめた記事がこちら。チャレンジしてみてください♪

チャイナ服

チャイナ服には、それぞれ同じ点と違う点があります。

服飾史やファッション史の研究でも、旗袍はやや混乱して理解されていました。とくに旗袍の場合、1910年代から1940年代にかけての変化は、把握しにくいものでした。

旗袍という言葉は清朝期になかったようですが、1920年代に整備された服制のもとで正式な名称となりました。つまり、法的な根拠をもちました。「旗袍の言葉」で後述します。

しゃんつ
しゃんつ

「旗袍は100年の歴史をもつ」といわれるのはそのためです。しかし、旗袍の歴史が100年ならチャイナドレスの歴史は20年ともいえます。

残念なことに、ネットで旗袍のイラストを探しても、要素(基本形)をふまえず、原型をとどめていないものが多いです。もはや旗袍とよべないイラストまで流布しています。

日本の研究もそうです。旗袍やチャイナドレスというと、エリック・ホブズボームの作られた伝統論を援用して、すべてが民国期に作られたかのように説明した研究があります。

言葉の説明を民国期以前、つまり清朝期に求めてしまい、形の説明はしないというスタンスです。この研究が有名になってしまったので、日本で旗袍は不幸に理解されてきました。

日本の研究者は旗袍の形をきちんと説明しなかったので、《なんでもチャイナドレスとにかく旗袍》というザルをうんでしまいました。

しゃんつ
しゃんつ

胸をむき出しにするために襟を省略して、首紐で支えるイラストなんかはチャイナドレスあるあるです。

ぱおつ
ぱおつ

いちばん強調されるのが胸部や脚足なら、残念。

前身頃の開き方を襟といいます。斜め開きの大襟に対し、対襟は真ん中で開いたものです。身頃とは衿や袖と区別し、上衣が胴体を包む部分の総称。身体の前部を包む部分は前身頃、背部は後身頃(田中千代『服飾事典』同文書院、1969年、822頁)。日本語では打ち合わせともいいます。

ワンピースかツーピースか

旗袍(チーパオ)はチャイナ服の一種です。

チャイナ服には旗袍のようなワンピースのものもあれば、漢服のようにツーピースのものもあります。

どんな服や衣装でもそうですが、チャイナ服はツーピースとワンピースに分かれます。ふつう、ファッション業界や服飾史研究では、おもな外衣が上下連続か上下分断かで区別します。スリーピース以上はアンサンブルとして、一旦は除外。詳しくはこちらをご覧ください。
ファッション辞典にみるチャイナ服と旗袍
旗袍は2010年代から日本でよく使われはじめた言葉です。カタカナ読みのチーパオも、とくに最近はよく使われます。2010年ころはチャイナドレスとよくよばれました。ファッション辞典や服飾辞典・服飾事典から、旗袍の言葉の使われ方や変遷をみてみましょう。
ぱおつ
ぱおつ

今では、旗袍はワンピースのドレスとして着られています。チャイナ風ワンピースの定番です。

しゃんつ
しゃんつ

よく「旗包」と誤記されますが、あながち間違いではありません。身体を包む衣服を意味するのが「袍」(ぱお)ですから。

清朝期(清代)には官人や貴族の朝服として、ズボンとあわせてツーピースに着られていました。

スカートとあわせて着た場合もあります。よく、ズボンとの併用は満族、スカートとの併用は漢族と大別されます。

でも、次の写真は漢族女子のズボンとの併用です。

上衣下裤(上に袍、下にズボン)。色つけで画像を加工しています。孫彦貞『清代女性服飾文化研究』上海、上海古籍出版社、2008年、63頁。

上衣の丈だけみると、漢族のほうが短めでした。

上衣の形からみると、清朝期の満族が着ていた長衫(長袍)・旗袍と、漢族の着ていた袍に、構成要素の違いはありません。

次の旗袍の特徴をご覧ください。そのうえで、組み合わせとしては、満族風の上衣下褲(裤、ズボン)か漢族風の上衣下裙(下はスカート)に分かれるだけです。

中国語でワンピースやツーピースなどの言葉をどう書くかは、次の記事をご覧ください。簡単に整理しています。

また、ワンピースの袍服だけを旗袍ととらえるか、旗袍の構成要素をそなえたツーピースの上衣もふくめて旗袍ととらえるかは、見解が分かれるところです。

言葉

形態(構成要素)と言葉の使い分け

旗袍とは何かを考えるとき、旗袍の形態と言葉を分けることが大切です。なぜなら、形が意味することと言葉が意味することとは違うからです。

「旗袍の構成要素」のとおり、旗袍の形の根拠となる要素は清朝期にありました。

これにたいして、旗袍という言葉は清朝期になかったようですが、満族であろうと漢族であろうと蒙族であろうと、旗袍の要素をそなえた服は着ていました。

同じ形の服の名前を民族によって分けることは、度がすぎれば民族差別につながります。

よく言われているのは「漢族の伝統服は漢服であって旗袍じゃないので中国人の伝統服は漢服だ」と…。漢族=中国人という等式はダメです。こういうことを中国人からよく聞くのがショック。もはや、着物だけが和服だという勘違いのレベル…。

逆に中国人は多民族国家ゆえの多様性に自信をもつべきです。一つの民族を一つの国民に見立て、さらに国を代表する衣装を一つに絞るのは止めて、旗袍と漢服を伝統服と考えればOK。私なんぞは広く「華服」と称していろんな服を呼べばいいと思います。

ぱおつ
ぱおつ

おおざっぱに、旗袍は満族に所縁のあるだというのはOKですが、清代に満族だけしか着なかったととらえるのはNG、ましてや旗袍を漢族の伝統服じゃないととらえるのもNG。清代に袍服(のちの旗袍)を着ていた最多数は漢族だったからです(後述)。

女真族は、清朝を樹立した頃に満州族と改称し、辛亥革命(1911年・12年)で満族と改称しました。以下では満族で統一します。

しゃんつ
しゃんつ

とにかく、言葉と物は分けたいところです。

言葉だけを重視すると、物を軽視することになり、物を重視すると、言葉を軽視することになります。これまでのファッション研究は言葉を重視しすぎました。

このサイトでは言葉にふりまわされず、衣服の形態、つまり物を重視します。そして、旗袍の言葉と形態をできるだけバランスよく紹介しています。

言葉

ぱおつ
ぱおつ

チャイナドレスの中国語は旗袍。日本漢字表記も中国語表記と同じです。英語表記は「qipao」、ピンイン(発音記号)は「qípáo」、旗袍の読み方はチーパオかチィパオ。英語文献では「cheongsam」(長衫)、つまり長い着物と表記されることも。

しゃんつ
しゃんつ

日本では、チャイニーズ・ドレスじゃなく、チャイナドレスとよくいわれます。チャイナドレスの正式名称が「チーパオ」「旗袍」だと考えてください。

旗袍の言葉の確定

民国期の有名な雑誌『良友』で旗袍の言葉が初出するのは、たぶん、1926年5月に刊行された第4号。この17頁に出てきます。

「短衣長裙」(短いジャケットにロング・スカート)や「短衣寛褲」(短いジャケットにワイドなズボン)と同列に「長旗袍」として足首までの旗袍2点の写真が掲載されています。ただ、「短衣」が「短旗袍」と書かれていないので、「長旗袍」の形容詞「長い」は何に対するものか、まだ分かりません…。

さて、中華民国議会では旗袍の言葉の是非がたびたび議論されました。旗袍という名前が旧政府の清朝を想起させるという理由からです。

しかし、長衫や長袍など、候補に挙げられた呼称では男性衣服名と混同するという理由で、結局は旗袍で統一されていきます(1920年代初頭)。そして、1929年4月に国民政府が「服装条例」を公布し、旗袍が女性の礼服として正式に決められました。

清朝期の旗袍は男女同型のうえ、長衫という言葉でだいたいまとまっていたようです。上に述べたように、1929年の「服装条例」では、男性用に長衫・長袍などの名前をあて、女性用には旗袍をあてました。

その前後、男性用の長衫・長袍は、ズボンと併用するツーピースが主流のままで、女性用の旗袍がワンピースへと変わりました。このことが男女間の決定的な違いです。そして、女性用(つまり旗袍)のエリ(領・襟)や丈の長さがしばしば変わるようになりました。

語源

一応の語源を書いておきます。

清朝期、漢族・満族・モンゴル族の一部の人たちは八色の軍旗に分かれていて、一般に「八旗」と呼ばれる軍人たちが分割統治していました(集中当地だったとの説もあり)。

八旗メンバーの最多数は漢族で、満族じゃありませんでした。八旗のメンバーは略して「旗人」と呼ばれていました。それで彼らが着ていたドレス(袍)は民国期になって「旗袍」と呼ばれました。

くりかえしますが、このように呼んだのは民国期になってからのことです。清代に旗袍は袍や箭衣(jiàn yī)とよばれていました(我的中国服装史考研笔记之-清代服饰 – 知乎)。

起源

旗袍の語源じゃなく、起源を考えると、形態に注目するのが無難です。旗袍の起源を古代に求める人もいれば、清代に求める人もいます。旗袍の4要素をどこまでさかのぼれるかが、一応の正解となります。

旗袍的新故事でも、正解を出せていません。ただ、後述の「旗袍の歴史」では、暫定的に17世紀としています。清朝の服制がはじまったからです。

今後の課題として、大襟とチャイナボタンの導入がいつからはじまったかが大事だと考えています。立領とスリットは、古代でも意外に探しやすいからです。

使い分けると見えてくるもの

丁寧に旗袍の形態と言葉をおさえていくと、ウィキペディアの説明が間違っていることが分かります。ウィキペディアでは「チャイナドレス」という項目を設定して次のように説明しています。

チャイナドレスは満州人の衣装「旗装」をモデルに改良して、20世紀以降西洋の服の製法を吸収し、定着したものである。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%B9

この一文からも、いろんな間違いが分かります。

まず、満州人の衣装を「旗装」とみなしていますが、満族も漢族もふくむ八旗の衣装が「旗装」です。

ついで、「旗装」をモデルに「改良」したと書いてありますが、どう改良したかはまったく説明されていません。ですから、「西洋の服の製法を吸収」した内容も書いていません。

参考文献が日本語での研究者による社会史ばかりに偏っているので、仕方がありませんが。

形を無視して旗袍を考えるとウィキペディアの捉え方になります。

満族出自の民族衣装が漢族支配下の民国期に民族衣装として定着したという事態を逆説だと考えてしまうわけです。形の定着は清朝期漢族が加担していた点も考慮すべきです。

また、満族の民族衣装にこだわりすぎると、広い意味で中華圏の民族衣装のひろがりを見失ってしまいます。

最近でもこのような記事が書かれています。

中国の伝統衣装というと「チャイナドレス」を思い浮かべますが、実は「漢服」が正式な伝統衣装であり、現在、中国の若者の間ではやっています。https://otonanswer.jp/post/77925/

正式な伝統衣装なら、なぜ流行るのでしょうか…?

最近でも旗袍は、中国大陸をはじめ香港や台湾でも着られ、中国人華僑の方たちが世界中で着ています。廃れてはいますが…。

この意味で、旗袍は、中華圏の民族衣装というぐらいで理解しておくのが無難です。大切なのは、いろんな旗袍を見て・着て楽しむことです。

旗袍の洋服化:洋服の民族衣装への影響

中国、朝鮮、日本、ベトナムでは古代中国から衣服(主に漢服)の影響を強く受けてきました。

このうち、朝鮮と日本では、それぞれツー・ピースおよびワンピースの形態を採った衣装として一部の人々に展開してきました。チマ・チョゴリ(치마・저고리)と着物(和服)です。

これらはいずれも20世紀になってから、洋服からの影響を受けて民族衣装として再編成されたものです。

チョゴリ、着物(和服)、アオザイ、旗袍を貫通する決定的な変化は綿入の消滅でした。着物(和服)は次のサイトが詳しいです(和服の洋服化 1:裸体禁止・ルーズ禁止からスリム化へ)。

このうち中国の旗袍は、ベトナムのアオザイと同じく洋服の影響を強く受け、身体のラインを強調する裁縫技術が積極的に導入され、1世紀前の姿とはずいぶん違うようになりました。

他民族衣装や他国家衣装への中国衣装の影響はこの記事をご覧ください(東アジア民族衣装の展開:袖と衣裳からみた古代中華圏の影響)。

曲線造体・緊身的方向の発生:スリム化とボディコンシャス化

1930年代からは旗袍の緊密性や拘束感が強まります。

体型が如実に表れ、身体に密着する立領と身頃がきわだってきます。

新旗袍の生地柄は西洋風に華美でした。また腕と脚・足の露出を強めていました。新しい旗袍は「曲線造体」(身体に沿う曲線、スリム化)で構成され、「緊身的方向」(身体密着的な方向、ボディコンシャス化)に形成されたのは、欧米の裁縫技術を取り込み、従来よりも立体的に作られるようになったからです。

接袖(セット・イン・スリーブ)の導入

旗袍が導入した洋裁技術の一つに接袖が挙げられます。

旧旗袍は肩と袖が水平に連なっていて(連袖または平連袖)、衣服形態上に肩と腕という区別が存在しませんでした。このタイプを連袖旗袍といいます。

1940年頃から新旗袍はセットイン・スリーブを採り入れ、肩と袖が別々に裁たれた後に縫合されるようになりました。このタイプを接袖旗袍といいます。

肩・袖の裁縫方法が変化したことは新旧の間にある地味ですが決定的な変化です。

左)実験衣1(民国期型旗袍)、右)実験衣2(現代旗袍)。いずれも蔡蕾(atelier leilei)作成。

上の写真、むかって左が連袖の旗袍、むかって右が接袖の旗袍です。連袖旗袍と接袖旗袍の違いは次の記事にくわしく書いています。

連袖(平連袖/平肩連袖)旗袍の着用イメージは「atelier leilei」の記事をご覧ください。

連袖旗袍に運動性が高い点は次の記事にくわしく書いています。

セットイン・スリーブの導入によって、逆に袖部分をつけないノースリーブも流行しました。

次の絵は杭稚英という画家の描いたミス上海の肖像画です。

杭稚英という画家の描いたミス上海の肖像画。出典は、白雲『中国老旗袍―老照片老広告見証旗袍的演変―』北京、光明日報出版社、2006年、208頁。

単色の旗袍は1920年代・1930年代の上海のおもな傾向です。

とくにスカイブルーのチャイナドレスは、いろんな場面で風景を占めていました。

開放感のあるノースリーブに対して、隠ぺい感のあるハイヒール・シューズと少し覗かせた足はモデルをひときわ目立たせてインパクトがあります。

乳房の強調とダーツの導入

ボディコンシャス化の前提には、乳房を強調するという美意識がつくられる必要があります。

中国には、ヨーロッパ女性のコルセット解放や乳房の強調化の影響がありました。

また、立体的なブラジャーを輸入するようになりました。女性の衣装は束胸から放胸へと進みました。詳しくはこちら。

旗袍が導入した洋裁技術の一つにダーツが挙げられます。

脇ダーツ、腰ダーツ、胸ダーツが着用者の好みや着用状況に依って選ばれる場合がありました。

接袖によって女性の身体にフィットしていった旗袍は、ダーツをとりいれることで、スリム化を超えて極端なボディコンシャス化に向かいました。

チャイナボタンの着脱やガーター・ストッキングの着脱

チャイナボタンの着脱やガーター・ストッキングの着脱は結構手間のかかるものです。

ガーター・ストッキングは1960年代後半頃からパンティ・ストッキングに代替されていきます。

パーマやハイヒール・シューズほど有名じゃありませんが、1930年代ころの旗袍にはストッキングを合わせるのが人気でした。

チャイナボタンはどうだったでしょうか。

1940年頃からチャイナボタンの裏側にホックを付けるようになりました。

1960年頃からはファスナーが一般的となり、チャイナボタンはホックの時期と同様に見せかけの物になっていきます。

もちろん、すべてがゼロになった訳ではありません。

今でも手作業でチャイナ・ボタンを作る人たちもいます。妻もその一人です。ボタン制作の様子はアトリエ・レイレイの日記をご参照ください。

チャイナボタンは手作業で作るには小さい割に手間暇かかります。

現代旗袍では、ほとんど機械製のボタンをつけて、着用時にはボタン留めではなくファスナーを使います。

歴史

旗袍の歴史(チャイナドレスの歴史)は大きく4段階にわかれます。

旗袍の歴史
  • 清朝期
    4要素の形成
    旗袍の形態が4要素で形成されました。4つ目の要素「立領」が登場した清代末期。
  • 民国期(近代)
    旗袍の洋服化
    形態の4要素は維持され、だいたい、1920年代にスリム化、1930年代・1940年代にボディコンシャス化。丈の上下や領の高低やスリットの深浅などがコロコロと変わりました。
  • 現代
    各部の高低・深浅の変動
    形態の4要素は維持。スリムとボディコンシャスは前提となりました。高い領と膝丈が流行。1960年代(とくに香港)から2000年ころまで。
  • 目下
    4要素の崩壊
    4要素のうち、大襟・八字襟とチャイナボタンの2か所が飾りだけになり、後身頃中心にファスナーが使われています。2000年代から。

旗袍の洋服化は、スリム化とボディコンシャス化の二段階で進みました。旗袍のスリム化がボディコンシャス化を促しました。

このうち、スリム化は3点から進みました。

  1. 綿入の消滅
  2. シルエットの変化
  3. 接袖の登場

つづくボディコンシャス化は、ダーツや肩縫い線の導入が中心でした。

旗袍の洋服化の完成時期について諸説があります。くわしくは「スリム化とボディコンシャス化:旗袍の洋服化 2」をご覧ください。

接袖旗袍が登場して連袖旗袍が減っていったとき、チーパオにはお行儀のよさを得て、運動性を失いました。

旗袍の歴史(チャイナドレスの歴史)を年代別に調べたりテーマ別に調べたりするときは、次のカテゴリーからたどってください。

以下では各時代・各時期の特徴を簡単にピックアップしていきます。

清朝期

旗袍は、もともと満族女性のおもな衣装でした。

満州は遼、金、モンゴルの衣装の袍服を吸収し、独自の民族的特徴をもつ衣装をつくりました。明代は未検証ですが、清代をとおして、満族女性はみんなが旗袍を着たそうです。

注意してほしいのは家族に旗人がいる漢族女性も旗袍を着たことです。

そして、旗袍を着た漢族女性の人数は満族やモンゴル族の旗袍着用者数をはるかに凌ぐものでした。

清朝期に満族(もと女真族)は、旗袍をズボンに組み合わせて着ていました。

この時代の旗袍は、綿入(わたいれ)や袷(あわせ)の習慣がありました。そのため、ゆったりとした布の量感をもっていました。

綿入は表地と裏地の間に綿を詰める工夫です。袷は表地と裏地をあわせる工夫です。

いずれも、防寒用・保護用に使われました。

清代旗袍はこちらに詳しくまとめています。

民国期(近代)

民国期に旗袍は漸次的に洋裁(西式裁縫)を採り入れました。

1910年代・1920年代

1910年代・1920年代には清朝期旗袍に対し細くなりました。綿入が消滅したので、旗袍が柔らかく見えるようになります。

1920年代以降、旗袍は上海や他の都市で人気を博しました。1920年代初頭に人気だった旗袍は、旗女・満女の旗袍と大差ありませんでした。幅が広く、まっすぐで脚元が長いものでした。

また、形態上は旗袍の要素を備えたジャケットやベストもツーピースで人気がありました。

1920年代旗袍はこちらに詳しくまとめています。

やがて旗袍のスタイルは急速に変化していきました。これは主に、長さの短縮、腰の引き締め、そして明らかな曲線のためです。

1930年代

1930年代には、さまざまな旗袍が登場しました。旗袍は全国的に人気を博し、中国の女性の典型的なドレスになりました。

この時期の代表的な旗袍は、北京拠点の京派と上海拠点の海派が有名です。1930年代のとくに後半から1940年代にかけての時期は、旗袍の黄金時代といわれます。

1930年代旗袍はこちらに詳しくまとめています。

1940年代

1940年代、旗袍のスタイルは簡潔で、長さを短くし、襟の高さを低くし、複雑な装飾を必要とせずに軽量でフィット感を高める傾向がありました。

他方、華美な旗袍も一部に広がっていました。1945年からの旗袍の洋服化は30年代をしのぐ勢いだったかもしれません。夏にはチャイナドレスの袖が外され、女性は白い腕を見せてさらに魅惑的に見えました。

1930年代からつづいて、袖の長さ、立領の高さ、開衩(スリット)の深さ、丈の長さ、柄の豊富さ、身体密着度などが旗袍の多様性を構成していきました。これらの傾向は地域と時期によって異なります。

1940年代旗袍はこちらに詳しくまとめています。

新中国期(現代)

1950年代

1940年代に旗袍は完全に洋服化しました。中裁と洋裁が混合して、旗袍は黄金時代を迎えていました。

1950年代の旗袍は輝かしい瞬間があったとはいえ、衰退ぎみ。

とにかく、この時代のとくに前半はツーピースが男女とも多いですが、後半にかけて地味に旗袍も発展しました。

1950年代は絹や綿の生地で半袖や長袖の旗袍が愛用されていました。丈は膝頭と踝のちょうど間くらいの落ち着いたものが多く着られました。1950年代は旗袍の歴史の最後の華でした。

他方で抗日戦争から国共内戦にいたる過程で女性の軍装化が進み、藍色または藍灰色の干部服、列宁装(列寧装)、棉大衣などが好まれました。

とくに列宁装は中性化された女性服だといわれました。

1950年代旗袍はこちらに詳しくまとめています。

1960年代・1970年代

1966年から1976年まで続いた「文化大革命」は旗袍にとっても惨事でした。

文革前後の旗袍は混沌としていましたが、フランスのとあるデザイナーが旗袍に輝きを見出しました。

1960年代・1970年代旗袍はこちらに詳しくまとめています。

1980年代・1990年代:現代旗袍の確立

文化大革命が過ぎ、1980年代から旗袍(チーパオ)は今と同じ奇抜な形をもちはじめました。文革後の中国ファッション業界は春を迎えつつありました。

業界の人々は直ぐにでも旗袍の人気が出ると予想しました。

社会がより寛容になるにつれ人々は美しいファッションを目指すだろうから、旗袍には流行の余地があると考えられました。しかし予想に反して旗袍は直ぐには人気が出ませんでした。

1980年代・1990年代旗袍はこちらに詳しくまとめています。

旗袍の不人気

期待に反して旗袍はなぜ不人気だったのでしょうか。その理由は2点あります。

まず、文革後の解放感は多くの中国人の目を外に向けさせたからです。

人々は外部の事物を熱狂的に追求し始めました。ドレス、ベルボトムス、ヘアスタイル、フットウェア…。爪先から頭まで西洋を模倣しました。

次いで、1960年代・1970年代の中国で旗袍はほとんど禁止されたため、旗袍を仕立てられるドレスメーカーやテイラーがいなかったからです。

ブロケードやサテンなど戦前期に多用されたドレス生地はほとんど無く、メーカーは新しい布を見つける努力もしませんでした。また民国期の連袖旗袍を作る技術が激減していました。

旗袍の陳腐化

そのため旗袍の業者たちはそのラインを変更し、プリントされた派手な柄、深いスリット、袖無し、短い丈を特徴にする旗袍を作り始めました。生地の節約と裁縫の簡素化によって旗袍は陳腐な衣装になりました。

さらに、1980年代・1990年代に女性の仕事範囲は拡大し、野外活動が増えました。生活のスピードも加速し、現代社会における女性の理想的なイメージは若さと活力に満たされたものになりました。

機能性の少ない接袖旗袍では日常生活を過ごしにくく、旗袍はかなり衰退しました。

このような結果、旗袍の形態は簡素な方向に均一化されていき、イベント衣装やレストランの制服になっていったわけです。もちろん、陳腐化したとはいえ、少し見方を変えると旗袍の強い生命力を感じることもできます。

平肩連袖の旗袍は、皺が多いのは欠点だと思われがちです。しかし、上肢の運動性を高める長点ももっています。

これに対し、斜肩接袖の旗袍では、弛緩の一部がかなりの皺や折れ目となり、背中や袖に引きつりを生じました。直立姿勢時に皺がない長所は運動性の低下要因にもなります。

現代旗袍の方向 : 旗袍の洋服化と無限の中西合壁

すでに旗袍は普段着としての役割を終えました。

もちろん、チャイナ服の普段着として復活させる試みは中国、香港、台湾などで活発ですが、高齢化は否定できません。

和服史にたいする次のとらえ方は旗袍史にも、だいたい当てはまります。

ヨーロッパ文明史の慣習的な見方にしたがって、戦争のはじまる前の一時期を、belle époqueと考えるなら、1930年代はわが国にとっても、まさにそのような“佳き時代”だったはずである。それは和服について、とくにそう言えるのであって、和服と洋服とが日常生活のうえで、拮抗しえた最後の時代であった。(大丸「現代和服の変貌II」142頁)

懐古的に旗袍と和服をふりかえるならば、20世紀前半の半世紀近くをかけて議論が紛糾した衣服改良の時代は、衣服形態の多様化を許した最後の時代でもありました。

20世紀前半の「中服か西服か」「和服か洋服か」の議論は、その後の洋服の普及と中服・和服の洋服化によって意義を失ったわけです。

仕立屋(ドレスメーカー)の減少

現代、連袖のもつよさが接袖の導入によって消滅し、接袖を前提とした製作段階にあります。

西洋裁縫技術が前提となった現代、一方でスリム化とボディコンシャス化を実現させながら、他方で少々の運動性を確保していく、この一見矛盾した西服設計には二つの道が残されています。

  1. オーダー・メイド(注文服)における厳密で詳細な採寸という道
  2. 二つにレディ・メイド(既製服)におけるニット生地の利用や伸縮性に富んだ化学繊維の利用という道

中国か日本かを問わず、年配の方がよく口にする「仕立屋が減った」との印象は、後者が前者を凌駕していく方向をさしています。

この方向は今後も継続されるでしょう。

現代旗袍の製作と購入

他方で、新しいドレスメーカーが中国でたくさん開店してきたのも事実。

ただ一つ残念なのはアパレルのもつジレンマ…。

たとえば、ビンテージのチャイナ服が好きで民国期の旗袍