20世紀初頭、中国では束胸が行なわれていました。束胸は女性の胸をしめつける習慣です。
束胸は「流行した」といわれます。その時期は清代末期とも民国期ともいわれますが、意外にはっきりしていません。
もともと、清代の方が民国期よりも貧しかったので、女性のバストが小さかったのはどこにでもある話です。
放胸が習慣になると、旗袍がボディコンシャス化する前提になります。
西洋の動向
さて、民国旗袍の洋服化はヨーロッパ追随の形をとっていたので、まず、ヨーロッパの動向を示しておきます。
旗袍の洋服化については、次の記事をご覧ください。
コルセットの追放
ヨーロッパでは20世紀初頭にコルセットが追放されました。この変化はすでに高橋晴子が明らかにしているので、それを要約します(高橋『近代日本の身装文化』226~230頁)。
18世紀後半から1世紀間、ヨーロッパでは、コルセットによって胸部・胴部が緊縛され身体に悪影響を及ぼすという議論が継続されていました。とくに19世紀には、服装改良運動が医学的観点や生理学的観点から強く推進されました。胸部・胴部の圧迫に対する否定と服装改良運動の促進は、同時代のフェミニズムとの関わりからも議論され、女性服に運動性を確保する方向が出てきました。
ブルーマーの広がり
コルセットからの解放は1851年の女性用パンツ(ブルーマー)着用運動の開始と並行して進みました。
といっても、あくまでも女性の運動が注目された点で同時代的ということであって、ブルーマー着用運動がコルセット追放へと直結したわけではありません。
19世紀末のサイクリング流行と同時に着用されるようになったので、ブルーマーという名前が広まったことは成功だったといえます。
ただ、高橋晴子が述べたように、19世紀中期と後期のブルーマーは形が大きく違いました。その点は注意が必要です。
コルセット追放の別の動きもあります。
それは、西洋衣服史・服飾史研究でよくいわれる1910年代ヨーロッパのデザイナーに才能を求める説です。この説はうなずきにくいものです。
なぜなら、高橋晴子は、18世紀以後の各世紀をふりかえり、各世紀のはじめの10~20年間にはウェストの比較的緩いスタイルが回帰していたという事実を指摘しているからです。つまり、コルセットの衰退は窮屈なウエストに対する感覚疲労に過ぎないとみています(高橋『近代日本の身装文化』242~243頁)。
西洋衣服史・服飾史研究では、細いウェストの復活として1940年代のクリスチャン・ディオールのAラインを必ずとりあげます。でも、同じ文献において1910年代の欧州デザイナーをコルセット追放の立役者とみなす矛盾が頻出しています。それゆえ、世紀初頭の感覚疲労という観点は強調したいところです。
改良コルセットから衣服の軽量化へ
ヨーロッパの女性服は、18世紀から男性服より多くの空間を占領していました。ヨーロッパでは、スリム化とボディコンシャス化は遅くとも19世紀末に確認できます。
たとえば、1891年頃のアメリカでbody suitsまたはthree in oneのコルセットが確認されます。これは胸部と肋骨に圧迫を与えない改良コルセットでした。
このようなコルセットにはウェスト・ダーツ(腰省)やバスト・ダーツ(胸省)が施され、身体に密着し立体的なものとなっていました。
1900年から1912年にかけて、女性服はボリュームを減らし、着衣姿の女性と男性が空間に占有する大きさはほぼ等しくなりました(ホランダー『性とスーツ』179頁)。
男性風平坦から立体的ブラジャーへ
男性風平坦の流行とシルエット
その後、ヨーロッパでは第1次大戦後、1910年代末から20年代にかけて男性風平坦(flat-boylike)が女性ファッションの流行になりました。
男性風平坦はモダンガールやフラッパーとよばれた女性たちが積極的に活用したスタイルで、彼女たちのシルエットはHラインでした。
千村典生は、1910年代をXラインからHラインへの過渡期としています。そして、1920年代は、Hラインがヨーロッパ女性服史上ではじめて本格的に登場した時期と考えています。ここに現代ファッションの源流をみます。
西洋衣服史・服飾史研究では、当時の女性ファッションをたんに「男性化」「男装化」とよんで、ズボン着用女性の画像を挿入するという手法が広くとられています。
しかし、このような説明はズボンを男性のものと規定した一面的な解説にすぎません。モダンガールやフラッパーもスカートを放棄せずに男女平等を推進しました。
なお、ヘムライン(裾縁)は上下をくりかえし、「さまよえるファッション・ライン」といわれています。
ブラジャーの登場
ブラジャー(brassiere)は1910年代に開発・販売されました。当初のブラジャーは現代のキャミソール風のものでした(Fields, An intimate affair, pp. 83-96)。
1930年頃にアメリカで立体的なブラジャーが実用化されました。その後、「もちあげられた乳房は1930年代に女性の流行的シルエットの独特な容姿」になりました(Fields, An intimate affair, p. 95)。
つまり、女性美基準に乳房が加えられるようになったわけです。
マニッシュ・ルックやギャルソンヌ・ルックなどに見られた男性風平坦の基準が退行し、欧米では1930年代にブラジャーが立体的になり、それとともに女性美基準に乳房が加えられるようになりました。この基準が新しく加わったことは、中国にも影響を与えました。
束胸から放胸へ
20世紀初頭の清代末期および民国期、女性には長髪・纏足・束胸が習慣化されていましたが、このうち束胸は最も遅く開放されました。ファッション先進地域の上海でも、1927年頃には短髪と纏足廃止(解纏足)が多く確認される一方で、束胸はかなり残ってたようです。
謝黎『チャイナドレスの文化史』青弓社、2011年、82頁~86頁。
放胸の議論
それまでにも新聞や雑誌で、胸部への圧迫は不健康であるとの指摘が肺病との関わりで述べられていました。放胸(胸部の解放)が本格化したのは1929年の北伐以後のことで、女性が国家の母として健康になることを民国政府が強調したからです(呉『細説中国婦女服飾与身体革命』205頁)。
厳密には、政治面で放胸が確認されるのは、1927年7月7日のことで、広州市代理民政庁長朱家驊が広東省政府委員会で「禁革婦女束胸」を提起し可決されたことがはじまりです(呉、同上書、196頁)。
フランスからブラジャーが輸入されたのは1920年代(謝『チャイナドレスの文化史』82頁)、雑誌でブラジャー(乳衣、後に胸衣)が紹介されたのは1927年のことでビキニ風のものでした(呉『細説中国婦女服飾与身体革命』199頁)。
1930年代になると学校教育でも束胸禁止が進められました(呉『細説中国婦女服飾与身体革命』208・209頁)。民国での放胸と、西洋での男性風平坦の退行や立体的ブラジャーの登場は、いずれも1930年頃にスタートしたのですから、意外に共時的でシンクロしています。
天乳運動
辛亥革命から北伐にかけての20年間で中国の女性解放運動(フェミニズム運動)は盛りあがり、その一部に天乳運動が起こりました。これは従来から束縛されてきた女性の乳房を開放させる運動です。それが欧米の女性美基準の変化と呼応して、中国でも乳房を強調することが増えていきます。
女性雑誌にみる胸部の注意
上のように同じ雑誌「良友」でも、1920年代と1930年代では旗袍と乳房の描写が変わっています。
これは、雑誌「良友」1926年5月号に載ったイラストです。
ついで、「良友」1933年6月号に載った旗袍のイラスト です。
見比べてみてください。1926年5月号では二人の女性の脇下から腹部にかけての線はほぼ直線です。これに対して、1933年6月号では脇下から既に乳房が膨らみはじめ、腰にかけてかなり窪んだ線になっています。
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