スリム化とボディコンシャス化:旗袍の洋服化 2

歴史(テーマ別)
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旗袍は、スリム化とボディコンシャス化によって服の形が大きく変わりました。

これは、旗袍の歴史で大きな変化で、一言でいえば旗袍の洋服化です。時代的には民国旗袍と現代旗袍の違いとして考えられます。

別のページでは、旗袍の歴史を研究するうえで新しい課題をさがしました。その結果、製作技術の面と動作の面でどのような変化がおこったか、もう少しくわしく考える必要があります。

中山千代は「製作技術の時代的特性は、服装史に重要な問題」と述べています。

中山千代『日本婦人洋装史』新装版、吉川弘文館、2010年〔初版1986年〕、3頁。

このページでは、民国期(中華民国期)に生じた旗袍の洋服化を述べています。

とくに、旗袍(チーパオ)が洋裁技術を導入し、旗袍の洋服化が実現した点について、スリム化とボディコンシャス化の点からまとめています。裁縫と衣服(モノ)の関係をあつかうので、中国服装史よりも中国衣服史として読んでいただければ幸いです。

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清朝期旗袍

清朝期に女真族(満族)は、旗袍をズボンやスカートに組み合わせて着ていました。

綿入の習慣

清代旗袍がゆったりとした布の量感をもっていた理由は、綿入(わたいれ)や袷(あわせ)の習慣があったからです。

綿入は表地と裏地の間に綿を詰める工夫で、袷は表地と裏地をあわせる工夫です。防寒用・保護用に使われました。

次の写真は廣州集成圖像有限公司所蔵のものです。

清代満州族の旗袍 清代滿族的旗袍

旗袍 : 清代満州族の旗袍 清代滿族的旗袍 via 旗袍百年變奏 展現中國古典美 – 太陽報

写真の角度と被写体の角度から、立領(たてえり)とスリット(開衩)がめだちませんが、大襟は左の女性からは太い10本ほどの縁取り線を、真ん中の女性からはナルト風に装飾された布がパイピング(縁取り)としてあてがわれていることを確認できます。真ん中の旗袍の下方に縫目があります。

これは左右の綿入が混ざって移動するのを防ぐためで、清代旗袍にはよく見られます。

腕や脚・足の露出はありません。脚の露出がないのは、ふつう、清朝期の旗袍はズボンやスカートと併用されていたからです。清朝期旗袍はツーピースを想定していました。

孫彦貞『清代女性服飾文化研究』上海、上海古籍出版社、2008年、52頁・63頁。

清朝期の旗袍は材料生地をほぼ全て直線に裁断していました。製図・型紙(パターン)の発想はありません。完成品全体の幅は広く、シルエットはAラインに製作されたため裾は広がっています。防寒用に綿入が施される場合はとくに質感があります。袖口はやや広がる傾向があります。腕や足の露出は無く、丈が若干短い場合でもズボンかスカートが着用されました。

民国期に清朝期旗袍がリバイバル

リバイバルというべきか、継続というべきか微妙ですが、復古的に民国旗袍は1920年代にツーピース(中国語で上衣下裳)として着用される場合がありました。1910年代・1920年代のツーピースでは、下にスカート(上衣下裙)か下にズボン(上衣下褲)の組み合わせで旗袍を着るのがほとんどでした。

1930年代になって、ワンピース(中国語で上下連属)で着ることが増えますが、まだ、上衣下裙と上衣下褲のどちらも着る人がいました。やがてワンピースに定着します。

1930年代というと、ヨーロッパの女性服にHラインが流行し、旗袍も影響を受けました。30年代は西洋女性服の取捨選択期でした。

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綿入の消滅:スリム化とボディコンシャス化の前提条件

旗袍のスリム化とボディコンシャス化は民国期にスタートしました。

清朝期旗袍の綿入が消滅したことが、スリム化とボディコンシャス化の大きな前提条件です。和服も同じです(大丸弘「現代和服の変貌」789~790頁)。

清朝期旗袍には、防寒用・保護用の機能が備わっていました。綿入が民国期に消滅したことで、旗袍は防寒と保護の機能を失いました。そして、旗袍を着るとき、コートやセーターを併用することになりました。つまり、冬の旗袍は外側に着るだけでなく、一つ内側に着るようにもなったわけです。

綿入の消滅によって、民国旗袍は軽装になりました。そして、他の衣料品と組み合わせる楽しさを着用者にもたしました。他方、清朝期旗袍にみられた最外衣としての威厳性、とくに豪華な刺繍を失いました。といっても、現代旗袍にくらべると、民国旗袍の刺繍は豪華だったといえますが。

白地に緑色縁のHラインの連袖旗袍(上海市歴史博物館所蔵)。 via 海派旗袍展-雲南省博物館 | atelier leilei

この写真は海派旗袍の一例です。

海派は京派旗袍に比べて先進的(西洋的)だといわれましたが、この作品はゆったりしています。

清朝期にくらべて、生地の厚みは薄くなりましたが、まだまだスリムにはなっていません。1920年代の作品でしょうか…。

スリム化とボディコンシャス化の完成時期

旗袍のスリム化とボディコンシャス化の時期について、先行研究をまとめます。

  • この時期を最も早くに設定しているのが中国近代紡織史編委会編〔1996年〕で、1920年代末と述べています。同〔1997年〕はそれを受けた説明で、西洋裁縫技術導入後の旗袍を説明しています。
  • 呉昊〔2006〕は衣服全体が曲線的になった時期を1930年代中頃と指摘しています。この時期は冷芸〔2005〕と長崎歴史文化博物館編〔2011〕にみる製図・裁断・縫製技術の浸透段階です。
  • 羅麥瑞主編〔2013〕、俞躍〔2014〕は、もう少し時期をずらして1930年代末期、1940年代としています。

詳細はこちらです。

いずれにせよ、1930年代から1940年代にいたる時期が西洋裁縫技術導入の最も激しかった時期です。ダーツも一部に導入されます。

なお、この時期、西洋技術を用いた一つに針織旗袍(Knit Qipao)も作られました(羅麥瑞主編〔2013〕)。ただし普及はしていません。また、西洋裁縫技術の普及につれ、京派と海派との区別が消滅していきます。

旗袍の洋服化(現代旗袍へ)

中国の時代区分からすると民国期は短く、この時期に、いろんな変化がおこりました。たとえば、シルエットが変わったり、ダーツが導入されたり。清朝期旗袍の変化が加速する時期だったわけです。

導入された西洋裁縫技術には、どんなものがあったのでしょうか。洋服化のポイントをみていきます。

綿入の消滅

民国旗袍の特徴の一つに綿入の消滅があげられます。

スリム化の第一歩です。

清朝期旗袍には綿入の習慣があり、防寒用・保護用の機能が備わっていました。綿入が民国期に消滅したことで、旗袍は防寒と保護の機能を失いました。

シルエットの変化

旗袍のシルエットは次のように変わりました。

1910年代・20年代はHライン、または清朝期よりも細くなったAラインが多かったです。これはシルエットのスリム化です。

Hラインの旗袍には広い袖口が多く使われ(1920年代)、そのシルエットに清朝期のAラインが残っているとみる説もあります(張「民国旗袍造型研究」10頁)。

1920年代になると、シルエットははっきりと曲線に向かいます。そして、腹部を凹ませる裁断が行なわれるようになりました。これはシルエットの曲線化です。ふつう、この曲線はSラインやXラインといわれます。

袖つけの変化:連袖から接袖へ

旗袍の洋服化は、1940年代に導入された接袖で完成しました。連袖から接袖への変化は、旗袍の形態上で本質的なものです。

ふつう、接袖はセットイン・スリーブとよばれます。連袖は、衣服のうえで肩と袖とを区別しませんが、接袖は服に肩と袖と身頃を作ります。

連袖に対し接袖は、材料生地の身頃部分と袖部分とを裁断縫製したものです。領から袖山まで緩やかに下降し、腕とおし部分(アームホール・袖繰り)からさらに急角度で袖つけされます。そのため、斜肩接袖といいます。洗濯干しや保存するときにはハンガーを使います。

裁断図をもとに、連袖と接袖の違いを説明した記事もご覧ください。

接袖には肩パットを入れることがあります。1940年代半ばに着用者のアピール・ポイントは削肩(撫肩、なでがた)から垫肩(怒肩、いかりがた)へと変わりました。

長崎歴史文化博物館編『チャイナドレスと上海モダン展』2011年、52頁。

張「民国旗袍造型研究」のように、垫肩(怒肩)の人気のスタートを1930年代後半とするなど、時期の異同はありますが、1940年前後の垫肩(怒肩)の人気を指摘する文献は多いです。

接袖の導入は1940年代の旗袍に確認されますが、1970年代頃まで接袖の旗袍と連袖の旗袍は共存していました。

接袖によって腕が下側に向かう点でさらなるスリム化が実現したとみることもできます。背中部分の継ぎ合わせは布地の節約が大きな目的で、細かく布地を裁断する点では接袖や肩縫線にも同じ役割があります。

ダーツの導入

旗袍の形態上で、ダーツは副次的な位置にあります。必ずしもダーツが使われるとは限らないからです。

また、袖つけの変化に比べれば、ダーツはあってもなくても、服の方向性に違いはありません。

それでも、ダーツに注目する意義はあります。ダーツは旗袍にたいして、スリム化じゃなくボディコンシャス化だけを強力に促進しました。詳しくはこちら。

パイピングの細化と刺繍の減少

ちなみに、旗袍のスリム化について、私はパイピングの細化と刺繍の減少も挙げたいところです。

上海の貴婦人たちが着た旗袍の珍蔵コレクション(楊雪蘭)。A rare Appreciation of the Qipao worn by the Grande Dames of Shanghai, Ms Shirley Young(楊雪蘭), via 『上海名媛旗袍宝鉴』, 36頁。

結論:旗袍のスリム化とボディコンシャス化

要約

民国期の旗袍は洋服や洋裁技術に影響されました。洋裁技術を導入した点は、おもに次の2点です。

  1. 1920年代のシルエットの曲線化から西洋裁縫技術の導入が始まりました。
  2. 1940年代に導入された接袖(セットイン・スリーブ)で旗袍の洋服化が完成しました。

接袖は、平肩連袖(連袖旗袍)に代替的なものとなりました。平肩連袖は、大襟に隠れる部分の布地を裁断縫製する役目も担いました。大襟に隠れる部分は布として独立しました。

旗袍の洋服化は伝統の継承か伝統の創造か

旗袍の洋服化は、清朝期からの継起でみれば伝統衣装の継続といえます。他方、その後の展開からみれば伝統衣装の創造ともいえます。最も導入の早い旗袍では≪西洋化=伝統の創造≫が1940年代に完成しました。

結論のここで伝統の創造という言葉をはじめて使いました。これは、エリック・ホブズボームという歴史家の言葉です。

いずれにしても、旗袍の洋服化は、短期間で実現されるものではありませんでした。1912年に服制で衣服改良の方針が決まったあと、断続的に進行しました。

服制によって、旗袍は中華民国の民族衣装(または伝統衣装)に採用されましたが、それ以降、正装から普段着までさまざまな変貌をとげました。旗袍は西洋裁縫技術の導入という展開をしました。その意味で、伝統の創造とは、洋服化(西服化)過程だったわけです。

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この記事の著者
ぱおつ

旗袍好きの夫婦で運営しています。ぱおつは夫婦の融合キャラ。夫はファッション歴史家、妻はファッションデザイナー。2018年問題で夫の仕事が激減し、空きまくった時間を旗袍ラブと旗袍愛好者ラブに注いでいます。調査と執筆を夫、序言と旗袍提供を妻が担当。

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