連袖旗袍から接袖旗袍へ:旗袍の洋服化 3

歴史(テーマ別)
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近現代旗袍の変化は洋服化に尽きます。

では、どのように洋服になったのでしょうか。

体感的にはスリムで窮屈になりました。これはスリム化とボディコンシャス化によります。この点は次の記事をご覧ください。

その記事で触れたように、袖つけの方法が変わったことは旗袍の洋服化で最も大きな特徴です。

このページでは、旗袍の袖つけに注目します。具体的には、平肩連袖の近代旗袍と斜肩接袖の現代旗袍の違いについて、実物や裁断図(裁断の概念図)から考えます。チャイナドレスの仕組みや構造も、このページでわかっていただけるかと思います。
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連袖旗袍と接袖旗袍

袖つけの点からみると、旗袍は連袖と接袖に大別されます。それぞれ簡潔に示す言葉は「連袖旗袍」と「接袖旗袍」です。

陳研・張競瓊・李嚮軍「近代旗袍的造型変革以及裁剪技術」『紡織学報』第33巻 9期、2012年09月、110頁。

「連袖旗袍」「接袖旗袍」という言葉は中国語で、中国でもマイナーです。でも、日本語でも十分に想像しやすいです。

連袖旗袍と接袖旗袍のイメージは次の写真(図1)をご覧ください。

左の水色の旗袍は「実験衣1(民国期型旗袍)」です。これを連袖旗袍(平肩連袖旗袍)といいます。右のベージュ色の旗袍は「実験衣2(現代旗袍)」で、接袖旗袍(斜肩接袖旗袍)といいます。

図1 実験衣1(民国期型旗袍)、右)実験衣2(現代旗袍)

左)実験衣1(民国期型旗袍)、右)実験衣2(現代旗袍)。いずれも蔡蕾(atelier leilei)作成。

写真のように、連袖旗袍は竿に、接袖旗袍はハンガーに保存したり干したりするのがいいです。

平肩連袖の近代旗袍

近代旗袍は、清朝期の連袖旗袍を継続していました。もちろん、近代化の時代ですから、接袖も登場しはじめていますが。

先の写真の「実験衣1(民国期型旗袍)」は、民国旗袍を再現したものなので、民国期型旗袍と名づけていますが、以下では民国旗袍に統一して述べます。

斜肩接袖の現代旗袍

洋服化した現代旗袍の特徴は、袖つけの方法が連袖から接袖に変わったことです。連袖は服を床に伸ばすと肩が水平になります。接袖は服を床に伸ばすと肩は腰にむかって下がります。

袖からみた旗袍の変化

以下では、

  1. 清朝期旗袍…平肩連袖旗袍
  2. 民国旗袍(近代旗袍)…平肩連袖旗袍
  3. 現代旗袍…斜肩接袖旗袍

の概念図を掲示して、2と3を比べていきます。その前提として、1から話をはじめます。

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清朝期旗袍の平肩連袖

形態の分析

図2のように、清朝期旗袍は4点の布から構成されていました。

図2 清朝期旗袍の概念図

出典:蔡蕾(atelier leilei)。
注:①前身頃・後身頃・袖,②右脇当布,③表領,④裏領。

清朝期(清代)の旗袍は、材料生地をほぼすべて直線に裁断しました。実際には脇下や裾には少し曲線裁断されたかもしれません。

製図や型紙(pattern)の発想がなく、ダーツ(中国語で省道)、袖付線、肩縫線もありません。完成品全体の幅が広く、シルエットはAラインになり、裾は広がります。

袖の長さが短くて、補足したいときは、

  • 肘あたりから布を継ぎ足す方法
  • 前後身頃の中心線で裁断して、長袖の布量を確保する方法

が採られていました。

このような技術は、民国期の1920年代中期にも確認されます(俞「民国時期伝統旗袍造型結構研究」53頁)。

清朝期旗袍の変化

清朝期旗袍の袖は、1890年代後半から細くなり、腋窩(えきか、脇下のこと)や腕と接触する部分が増えました。この変化を西洋の影響とみる説があります。

祖倚丹・王瑾「清代服装在現代成衣設計中的応用」『SILK』第48巻9号、2011年9月、43頁。

袖口が狭くても、腋窩(えきか、脇下のこと)や腕と接触する部分が少なかった旗袍は18世紀以前にも確認されます。

19世紀末に腋窩や腕との接触空間が縮小した点は、光緒帝(1875~1908年在位)皇后の常服・便服から確認することができます。

また、腰部と袖のスリム化も確認できます。

故宮博物院編、嚴勇・房宏俊主編『天朝衣冠―故宮博物院藏清代宮廷服飾精品展―』紫禁城出版社、2008年、97頁・124頁。

民国旗袍(近代旗袍)の平肩連袖

民国旗袍(近代旗袍)の位置づけ

ぱおつ
ぱおつ

中国の時代区分からすると民国期(中華民国期)は短く、また、民国旗袍は変化が激しいので、何か特定のスタイルはありません。

しゃんつ
しゃんつ

あえて民国期らしさや民国旗袍のスタイルをいえば、綿入の消滅でスリムになったけど、平肩連袖のままだし、ダーツもないから少しゆったりしているし、まさに清朝期と現代の「間」のようなものです。

民国旗袍は連袖旗袍を継承しました。

もっとも、清朝期旗袍のすべてを継承したわけではありません。綿入は消滅したので、その点では清朝期の旗袍を継承していません。

形態の分析

連袖は、一枚の布で身頃、肩、袖、大襟を発生させる技術のことです。

連袖は、すべての清朝期旗袍、ほとんどの民国旗袍、すべての日本和服(着物)に採用されてきました。平肩連袖、平連袖、平袖ともいいます。

図3 実験衣1の裁断図(民国期型旗袍)

実験衣1の裁断図(民国期型旗袍)。蔡蕾(atelier leilei)作成。

図3のように、連袖の旗袍は領から袖口までが水平に開いています。そのため、洗濯干や保存をするときに棒や竿を両袖に通します。

平肩接袖

俞躍の研究によると、1920年代末から30年代にかけて、幅の狭い生地で製作するとき、連袖旗袍に袖の裁断縫製(接袖)をほどこしたもの、いわば「平肩接袖」が登場しました。

俞「民国時期伝統旗袍造型結構研究」53~54頁。俞はこれを連袖の一部とみなしています。

私も、平肩接袖を平肩連袖と同じグループとみなしています。領(えり)から袖口にかけて水平になる点を重視するためです。

清朝期旗袍は民国期よりも比較的に袖が長く、連袖に布を継ぎ足している場合もあります。足された布は找袖といい、接続部分にはさらに別の布で装飾をして、継ぎ足し線を隠すこともありました。

平肩連袖の矛盾

清朝期旗袍や民国旗袍は平面を立体に着用するという矛盾を抱えていました。連袖はその矛盾をもっていました。

清朝期・民国旗袍には「挖大襟」と「拔襟」という言葉がありました。「挖大襟」は裁断して大襟を発生させることで、「拔襟」は大襟を少し引き伸ばして右肩へ重ねることです。

大襟の発生は洋裁にもなく和裁にもない、平面のなかに立体を発生させるという、まさに中裁としかいいようのない独特な技術でした。今では再現できる人がほとんどいません。

民国期中国では、連袖が継続する一方で、斜肩接袖が登場しました。平面を立体に着る矛盾は接袖の導入で克服にむかいます。

現代旗袍の斜肩接袖

形態の分析

下の図4は、図1の右にある実験衣2(現代旗袍)の裁断図です。

斜肩を確認するには、⑥と⑦をご覧ください。丸みをもたせて裁断しています。前身頃の裁断部分①は上から少し下がって、アーム・ホール(腕穴)を作っています。左右の角度が異なるのは、右下に下りる大襟のためです。

図4 実験衣2の裁断図(現代旗袍)

実験衣2の裁断図(現代旗袍)。蔡蕾(atelier leilei)作成。

実験衣2(現代旗袍)の裁断図の特徴

この図と先の実験衣2は、綿入の消滅からダーツの導入にいたる、旗袍の洋服化のすべてを反映したものです。

洋服化の要素には次のようなものが挙げられます。

  • 綿入の消滅
  • シルエットのスリム化と曲線化
  • 袖つけのスリム化
  • ダーツの導入によるボディコンシャス化
  • パイピングの細化と刺繍の減少

詳しくはこちら。

結論

このページでは、連袖旗袍と接袖旗袍の実物や裁断図をみました。接袖旗袍の方が布をより多くのパーツに裁断していることがわかります。ヨーロッパで囲い込み運動があったことを思い出しました。

より多くのパーツに布を裁断することで、機能性(運動性)はどうなるでしょうか。この問題は下の記事をご覧ください。

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