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摩登女郎(モダン・ガール)の旗袍から見えたもの

歴史(テーマ別)
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このページでは、私がモダン・ガールだと思った民国旗袍のイラストや写真を紹介しています。キリがないのでイラストも写真も3点ずつだけです。

定義(言葉)と衣服(モノ)は必ずしも仲良く手をつなぐわけではないので、私なりのモダン・ガール紹介とモダン・ガール論です。

といっても、当時の写真やイラストって、モダン・ガールしかないですが…。そこで、今でもモダンだ(新鮮だ)という点を重視します(美的センスがバレる!)。

恐縮ですが、いつもどおり前置きが長いです。旗袍のイラストや写真を楽しみたい方は目次からジャンプしてください♪

あと、中国のファッション史や服装史の研究者たちはモダン・ガールをとりあげません。民国旗袍がいつも変化を続けたからです。最近の中国のブログでは増えましたが。

モダン・ガールの意味と中国語

モダン・ガールの意味

モダン・ガールは、だいたい1920年代・1930年代に登場した新しい女子や新女性の意味です。だいたい万国共通にみられた都市部の現象や集団です。

だいたい1920年代・1930年代としたのは、第一次世界大戦を起したヨーロッパでの期間です。すでに西洋化の激しかった中国は物理的には大戦の影響を受けていませんから、1910年代にモダン・ガールが出現していてもおかしくありません。

もし、モダン・ガールの名前や衣装がアメリカ発だったら余計に、ヨーロッパに左右されずに考えられます。日本語や日本人研究者のファッション史文献は欧州汚染がはげしいので、ヨーロッパで説明しようとします。持論ですが、ヨーロッパに加え、アメリカと中国を軸にしないと世界史を説明できません。
ぱおつ
ぱおつ

後で写真にとりあげる清朝末期の女子たちの衣装はモダン・ガールといえそうです。西暦では1910年ころでしょうか。

ヴァルター・ベンヤミンが好きだった19世紀の遊民現象は男性に限定したものでした。モダン・ガールは女性の都市遊民だったともいえます。

若い女性だけをモダン・ガールという人もいますが、年齢に厳密な線を引かずに使う研究者が多く、乱暴です。モダン・ガールは近代化と都市化のもとで発生した現象や集団ですから、これに属するのは、女学生、職業婦人、そして女性社会運動家たちでした。

モダン・ガールの中国語

モダン・ガールは、中国語で摩登女郎と書きます。

1850年に創刊した週刊英字新聞「North-China Herald」(北華捷報)が1928年に発表した記事で「モダン・ガール」を「中国摩登女」と書いたのが最初あたりです。それから、1933年までに「Modern Girl」の中国語訳が「摩登女郎」へ定着していきました。

モダン・ガールはフラッパー・ガールともいわれました。中国語で「飞来波女郎」。典型的な映画があります。アンナ・メイ・ウォン(黄柳霜)が出演した『飞来波女郎』です。あえてモダン・ガールとフラッパー・ガールの違いをいえば、後者は帽子が多い点でしょうか。

なお、日本の女性史研究者たちはモダン・ガールという言葉を和製英語だとよく言いますが、同時代のアメリカに「modern girl」という英語はあります。^^;

モダン・ガールの出現と消滅

モダン・ガールが出現した背景には、19世紀までの価値観が窒息したことをあげられます。

そして、1910年代は辛亥革命、第一次世界大戦、ロシア革命など、世界の主要国が動乱に巻き込まれ、女性たちは男性の仕事を引き継ぐ必要がありました。女性たちが否応なしに社会進出したわけです。1920年代・1930年代になると女性解放運動も加わって、さらに女性の社会進出が増え、地位が向上しました。

1929年10月の世界恐慌がはじまってモダン・ガールやフラッパー・ガールは消えたと、よくいわれますが、それは消えた地域だけの話。むしろ中国では、1930年代にもりもりとモダン・ガールが人気は広がっていきました。

そもそも、モダン・ガール(Modern Girl)の言葉は近代女性とも現代女性とも訳せるわけで、近代化のかかえる根本的な問題をもっています。つまり、永遠の変化とか、常に現在とか、です。地球の破滅以外に終わりなんぞあるわけがありません。フラッパー・ガールは呼称が消えたと考えておけばOKです。

摩登女郎(モダン・ガール)のファッション

モダン・ガールのファッションは、「ギャルソンヌ・ルック」「マニッシュ・ルック」「フラッパー・ルック」といわれます。

モダン・ガールのファッションを簡単にいうと男性風ファッションでした。髪型はショートボブかパーマ、靴はローヒール・パンプス、衣服はスリムだけどボディコンシャスまでいってない衣装といったところです。

女性の解放は身分や立場だけでなく服装にも現れたので、そのころの男性の服装がファッション・モデルとなったわけです。

ただし、ギャルソンヌ・ルックの特徴に活動性を強く指摘する人がファッション史研究者に多いのですが、これは間違い。活動性しやすい衣装は古今東西どこにでも存在するので。そういう研究者にかぎって、仕事着をギャルソンヌ・ルックとは言わないので、嫌らしい口だけの説明に終わっています。

詳しくは姉妹サイトの「ギャルソンヌ・ルック:マニッシュやフラッパーとも」に書いているので、そちらをご覧ください。

さて、中国では摩登女郎(モダン・ガール)のファッションはどうだったでしょうか。

いろんな事例を挙げるとキリがありませんし、ブログ的にも旗袍や同型ブラウス・ジャケットに限定して見ていきます。

摩登女郎(モダン・ガール)たちが着た旗袍

ちょっとご注意

つい、旗袍から歴史をみると、モダン・ガールは旗袍ばかり着ていたように錯覚しますが、とんでもございません。

旗袍も着れば、清代旗袍をコスプレしたり、水着で海水浴したり。さらに、輸入か国産のいろんなドレスやコートを着たり羽織ったり…。実にさまざまでした。

それでは、モダン・ガールだろうと私が思う作品をいくつかご紹介します。

イラスト

民国旗袍を示すイラストは、おもに広告ポスター(カレンダー・ポスター)でたくさん見ることができます。これらは新中国でくりかえしポスターや絵葉書で複製・再販されてきました。本や図鑑でも使われまくっています。

これらのなかで、とくに旗袍が可愛いと思ったのは次のイラストです。

黄色地に赤色のドット柄という派手な旗袍。倫敦保險公司(倫敦保険会社)のカレンダー・ポスター(月份牌)。杭稚英(杭穉英)作。絵葉書(中国上海XXL)。

立領の存在感がつよく、なんといってもドット柄。

黄色地に赤色の水玉模様ですよ。ド派手。

そして、この旗袍は双円襟(八字襟)です。ふつうは大襟といって、片方にだけ襟があるんですが、双円襟は両方に襟が広がったものです。種類は、ほぼ横一直線のものと、このイラストのような八字や円形のものに大別できます。

それにしても、このカレンダー・ポスターはやはり謎です。暦が1910年代になっていて、さすがにこの旗袍はなかったやろと思ってしまいます。裾は、1910年代のヨーロッパ最先端のマーメードですし。

ついで、旗袍の斬新さに顔の表情もくわえたモダン・ガールは、これかなと思います。

旗袍のポスター。耕種牌/耕种牌(倪耕野の画)。絵葉書(中国上海XXL)。

旗袍がボディコンシャスだからか、顔が丸めだからか、今にも女性の可能性が爆発しそうな瑞々しさを感じます。ハイヒールで脚を組んでカッコいいです。

他には旗袍を着てゴルフする女子。

平肩連袖の旗袍を着てゴルフの練習をする女性。スリットが臀部まで到達し、かなり深い。内にスリップ着用。ハイヒール・パンプスとパーマ。作者は志廠。規格は、77.6cm×50.6cm。青島中国山東煙公司のポスター。趙琛珍蔵。趙琛編著『中国近代広告文化』大計文化事業有限公司、台湾、2002年、239頁。

3つをとりあげただけですが、こう見ると私がモダンだと感じるモダン・ガールの旗袍は、立領が目立つことが前提で、袖はノースリーブから中袖まで、輪郭はスリムかボディコンシャス。髪はショートから肩までで、できれば靴はハイヒール・パンプスでとなります。

いつかどこかで見た映画…を思い出しかけていますが、その前に写真をとりあげます。

写真

ときに現実的な写真は創造的なイラストを超えることがあります。

私がモダン・ガールだと思った写真は次の3つです。

清朝末期のモダン・ガール

女装とスカート。清朝末期の漢族婦人服。孫彦貞『清代女性服飾文化研究』上海、上海古籍出版社、2008年、52頁。

どうですか。

清朝末期の漢族女性の衣装です。おそくとも1911年までの写真です。

これを新女性としてモダン・ガールだと考えてもいいと私は思っています。

両把頭を髪飾りにまでシンプルにしたセンス。旗袍を膝丈にまで上げて、ゆったりしたスカートかズボンを纏足とコントラストさせるセンス。

大げさな装飾とパイピングでも、ツーピースの旗袍に躍動感を感じます。立領の低さが首の細さを強調しているのもカッコいいです。立領は横ストライプになっています。これは清代のスタンダードではないでしょう。

ただ、この大げさと軽装をまぜた衣装は清代末期の女子たちに流行だったようです…。彼女だけがセンス良かったわけじゃない…^^;

上衣下裤(上に袍、下にズボン)。孫彦貞『清代女性服飾文化研究』上海、上海古籍出版社、2008年、63頁。

1930年代のモダン・ガール

次は、カレンダー・ポスターのアングルによく出てくる写真です。

カメラマンやイラストレーターたちが右側から写したり描いたりするときに、この角度が多く使われます。右側からですと大襟もスリット開きも見えやすくなります。

時影編『民国時尚』民国万象叢書3、北京、団結出版社、2005年、109頁。

出典には1930年代に流行した旗袍と書いています。ハイヒール・シューズがかなり高め。髪はパーマですが、後ろに長め。

この写真はショートボブ一辺倒のモダン・ガール像に新しい印象をもたせてくれました。どうしてこれほどの笑顔が出せるんでしょうか…。

旗袍は平肩連袖っぽいです。かなり長袖ですね。半袖や袖なしの旗袍が多かったはずの時代に長袖とはカッコいいです。ヨーロッパサイズの幅広織物が輸入されていたから、一枚の布でこれだけの袖丈と裾丈を確保できたのかもしれません。写真は不鮮明ですが、袖の途中に縫い目がなさそうです。

パイピングは黒でしょうか、細めにすっきり。

スリットは膝あたりまで。

裏地が見えています。裏地にも花柄がありますが、生地の話になるので私にはよく分かりません。ふつう、布の片方の柄は、反転するはずの花柄が反転せずに写されているようです。あ、だから織物段階で花柄を出したのじゃなくて、プリントでしょうかね…。

写真が不鮮明なので分かりにくいですが、立領は高め。大襟はS字を描いて腋窩へ。大襟の両側の花柄がほぼ一致している点は、裁縫技術の高さを感じます。

生地柄は花柄で旗袍全体にたくさん広がっています。

1931年のアンナ・メイ・ウォンの旗袍

最後に、アンナ・メイ・ウォン。

この写真は、スリム化とボディコンシャス化をはたした1940年代上海発1960年代香港行き列車の経由地みたいなものです。

Anna May Wong in 1931 FROM THE EVERETT COLLECTION. via Hollywood: The True Story of Anna May Wong and The Good Earth | Vanity Fair

アンナ・メイ・ウォンの旗袍はスリムを越えてボディコンシャスに。

この写真はハリウッド映画の一場面ですが、1930年代・1940年代の民国旗袍がはたした洋服化の要素をありとあらゆる点で使っているようです(一部に中裁もありそう、後述)。ですが、この写真は1931年に撮られたとのこと…。ですから、洋裁ちょっとに中裁かなり、というテク配分かも…。

細袖の丈がかなり長いので、その分、タイトな印象が強いです。

それに加えて、立領下あたり(大襟か)と胸部に施された花柄っぽい刺繍。かといってパイピングも豪華にするという清代の発想はありません。だから刺繍が際立ちます。

ダーツは入っているんでしょうか。脇ダーツはなさそうですが、胸ダーツが見えません。ダーツがなければ、このボディコンシャスさがさらに謎めいて、裁縫技術に圧倒されます。洋裁だけじゃなくて中裁も入ってる気がします。

さらにこの旗袍が凄いのは、肩と腋窩が緩むはずの平肩連袖で作っていることです。

もちろん、アンナは腕を水平方向へ広げているので、この姿勢は平肩連袖にとって皺の出にくいものです。

それでも凄いしカッコいい。

簡単にいえば、古いテクニックで新しいスタイルを作っているということです。

接袖ならこの写真の腋窩に皺(シワ)がほぼ発生しないのは分かりますが、連袖で腋窩に皺が出ていません。その分、二の腕から肘にかけて皺が集まっていますが、それでもぶよぶよ感はありません。

唯一、立領が影に隠れて見えにくいのが残念。

アンナ・メイ・ウォンが見せたタイトな旗袍と、諦念や疲労が混ざった表情とがあわさって、とうとう、私は一つの映画を思い出しました。

アンナを経由地に、1940年代上海から1960年代香港へ行きましょうか。

摩登女郎(モダン・ガール)の旗袍から見えたもの

うだうだ書いてきて分かったのは、映画『花様年華』に出てきた1960年代香港の旗袍につながるイメージなんですね。不思議なのは、『花様年華』の主役だった蘇麗珍は既婚女性であって、さすがにガールとはいいにくい設定。

うーん。

混乱してきましたが、蘇麗珍を演じたマギー・チャンが私よりも年上だからマダムに見えるのでしょうか。民国旗袍がもっていた1960年代香港旗袍の先取りのようなスタイルは時代とともにモダン・ガールからモダン・マダムに代わっていったようです…。

1930年代のモダン・ガールが1960年代にはマダムだったとしても、蘇麗珍は40歳前後のはずなので、年齢を重ねただけという単純な話ではありません…。上の3つのイラストと蘇麗珍が決定的にちがう点は髪をアップにするかどうか。この辺がガールとマダムを分ける点かもしれません。

他方、民国旗袍を京派と海派に二分する議論が少しあって、この議論の内容と可否を「民国旗袍の京派と海派」にまとめています。

この記事の結論で、包銘新主編『世界服飾博覧 中国旗袍』の説をとりあげて、京派旗袍がマダムのようで海派旗袍がモダン・ガールのようだと私は紹介しました。1940年代には遅くとも海派旗袍が主流になったのですから、そのスリムさやボディコンシャス化が定着したわけです。

そうなると、1960年代の香港旗袍が蘇麗珍の着たドレスのように身体に密着していた事態は、民国旗袍(とくに海派旗袍)の洋服化の結果だったと思います。

やっぱり一時代のモダン・ガールの衣装は次の時代のモダン・マダムの衣装となり、古典となります。その子供たちの世代は、親の服装をみつづけた感覚披露や拒絶反応から別の服装を求めるようになります。モダン・ガールは単なる若い女子というよりも、親に対する女子が役者で、次世代へと別服欲求は受け継がれていきます。

これが私のモダン・ガール論です^^;

1970年頃に香港では旗袍の人気が急落していきました。人気の急落は、1920年代・1930年代上海をリノベーションした1960年代香港の終わりを告げています。

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