旗袍を満族が着ていた衣服と定義することは間違いです。
旗袍は旗女の着ていた衣服と密接な関係があります。
このページでは、旗女(八旗女性)、満族女性(満女)、非旗女の漢族女性(漢女)の衣装の変遷を清代にかぎってまとめています。
大まかには、旗女・満女の衣装と非旗女の漢女の衣装は、清代前半に対比していましたが、清代後半に融合していった流れです。注意点は二分法にこだわりながらも、こだわり過ぎないことです(笑)。
ヨーロッパや日本のように、中国との関わりで過ごしてきた国は二分法に陥りやすいです。中国の歴史は、もともとヨーロッパや日本と違い多様性を含んでいるので、三分法以上の視点が必要です。
満族の入関前:旗袍を着た最多数は漢族
いわゆる旗女は旗人家庭の女性家族のことです。
旗人は清代に八旗のメンバーとなった人たちの呼称です。清代八旗の構成は、満族を中心に、漢族やモンゴル族など他民族も含んだ融合体でした。
八旗には清朝皇族の愛新覚羅の本家を除き、「覚羅」を筆頭に、八旗満洲、八旗モンゴル、八旗漢軍を包括していました。八旗漢軍と八旗モンゴルはそれぞれ漢族とモンゴル族が帰属しました。
ところが、清代初期の八旗漢軍の人口は26万人で、この数は八旗満州と八旗モンゴルの合計の3倍でした。したがって、八旗や旗人には満族だけではなく、モンゴル族や漢族もいたわけです。しかも漢族が圧倒的多数だったという現実…。
このように、旗袍を満族が着ていた衣服と定義することは間違いです。清代袍服(旗袍)は漢族も着ていた衣服でした。八旗にかぎっていえば、漢族が多民族にくらべ一番たくさん袍服を着ました。
満族は北部に住む少数民族です。釣り、狩猟、遊牧が得意でした。清代の袍服(旗袍)は地上から離れても保温できました。
その後、満族と親しかった漢族やモンゴル族もこのスタイルを採用し、明代後期から清代初期にかけて八旗制度がだんだん確立していくなかで、満族のスタイルも変わっていきました。
満族の袍服はモンゴル族の袍服から影響を受けはじめました。当時の基準でスリムになったのです。
当時の漢族、満族、モンゴル族の旗女たちが身につけていた袍(袍服)は旗袍の前身です。現代の意味で旗袍になったのは、中華民国になってからのことです。
それでは、旗女以外の満族女性(満女)と漢族女性(漢女)はどうだったのでしょうか。
満族入関直後の旗女と満女と漢女
旗女の満女と旗女の漢女は袍服(旗袍)を着ることが多かったのですが、旗女じゃない満女と漢女の衣装には、清代初期に明らかな違いがありました。
満族は入関後に統治者となり、漢族に辮髪・便服を供応しました。しかし、強制的な衣服同化政策は、期待された目的を達成できず、また、漢族から強い抵抗を受けました。
この対立を緩和するために、清朝は明朝の「すべてを従わせるわけじゃない」政策を利用しました。この政策には「男性は従い女性は従わない」、「生きる人は従い死者は従わない」、「娼婦は従い俳優は従わない」、「仕官は従い、結婚すれば従わない」など、数カ条がありました。
この政策によって、旗女に属さない一部の漢女は、民族気質をしめす服飾を身に着けつづけました。
具体的に、旗女に属さない一部の漢族女性は、清代でも、衣装・ウェディングドレス・喪服を明代のスタイルで継続したのです。
清代初期から中期にかけて:満漢分離
清朝初期から中期にかけて、旗女の衣装と、旗女に属さない一部の漢女の衣装は、はっきりした特徴を示していきました。
もっとも、漢女がいっさい袍服(旗袍)を着なかったとはいえませんが…。研究上、意外にこの点が不明瞭なんです。
あえて両者を区別するポイントは次のとおりです。このサイトの目的からすると髪型と靴は副次的、衣装がメインです。
髪型
旗女
お団子状の髪型。おもに「両把頭」や「二把頭」といいます。
頭のてっぺんで髪を結び、両サイドにわけて、水平の長いお団子をつくります。背の高いお団子が最大の人気でした(詳しくは「二把头_百度百科」)。
漢族から「旗頭」といわれたヘアスタイルは両把頭から発展したもので、入関後に人気がでたので「大京様」とも。詳しくは百度の「旗头_百度百科」。
非旗女の漢女
ヘアバンドを使ってフラットでした。
黒色フランネルの帽子をかぶり、眉毛はドレーピング。ローカットでぴったりしたヘアスタイル。
靴
旗女・満女…花盆底という高い靴を履いていました。といっても日常的に穿いていたかは知りません。歩きにくそう…。
漢女…纏足をしていました。といっても漢族女性のすべてがしていたわけではなく、おもに富裕層です。
靴は歩きやすさで判断しがちですが、20世紀までは歩きにくさも大事です。この辺は、「仕事をしない女性たちを養える男性の甲斐性」を高く評価した家父長制的な発想があるからです。
全世界で見られた現象です。詳しくはソースティン・ヴェブレン『有閑階級の理論』に書いています。
衣装
旗女
袍服は旗女の着る服で最重要なものでした。
旗女はスカートを穿きませんでした。朝廷で着た衣装にスカートはありましたが、例外的です。袍服のズボン部分が着地していました。
袍服には馬蹄形の袖があり、服全体に複雑な装飾やアクセサリーを併設。とくに刺繍とパイピングが袍服を装飾していました。華美な装飾は清代になって漢族の女性衣装から影響を受けていったといわれます。
非旗女の漢女
スカートは漢女の大きな特徴でした。
これを受けてよくいわれる誤解が、漢族女性は袍服を着なかったという説です。この誤解は、漢女の着ていた袍服の丈にあります。清代のイラストや写真をみると、袍服の丈は旗女のほうが長くズボンが見えにくく、逆に、漢女の袍服の裾からはよくスカートが見えるからです。
袍服の説明が満族と漢族でズレる理由
満族と漢族をとわず、袍服の形は同じです。ですから、次のように理解するのが無難です。
旗女・満女は着地する丈の袍服を着て、下衣にズボン。漢女は膝丈の袍服を着て、下衣にスカート。あえて、漢女の衣装を「上衣下裳」や「上袄下裙」とツーピースに説明するなら、旗女・満女の袍服は「上下連属」というように対比して説明するべきです。満族の袍も漢族の袄も形は同じだったんですから。
満族のズボンが見えにくかったこともあり、中国服装史の本では、漢族のスカートの説明ばかりをとりあげる悪い癖があります。これに対し、満族の叙述は、目立つヘアスタイルに偏るという…。人類ってバカですね。
いいかえると、19世紀まで、膝丈のワンピースはスカートとみなさなかったわけです。女性の身体を隠す発想があったからです。
そのため、下衣に何か穿くことを求めようとするわけです。この考え方は研究者も当時の人たちも同じです。ですから、今の観点から見ると少し分かりにくい説明になります。
上衣または上半身を覆っている一番のアウターウェアは何かを基準に考えるべきです。
そうじゃないと、ツーピースや3つ以上のアンサンブルで焦点がブレます。
清代中期から末期にかけて:満漢融合
満漢融合
清朝の女性服緩和政策によって、清代中期になると満族と漢族の女性服の境界は、不明確になっていきました。清代末期には露骨に相手のアイデアを取り入れていきました。
旗袍には、漢族が縁起よしとする模様や刺繍技法をとりいれました。また、深い色のジャケット(半臂/はんぴ)を着ているかのように装飾することもありました。といっても、いろんな文献やサイトで漢族に縁起よしの具体例が書かれていないのが残念です。
とにかく、清末になると、長めのチョッキ(坎肩)を着る漢女や、袍服を短くしてズボンを露出する旗女・満女も登場してきます。それまで、前者は短めのジャケット(袄)、後者は着地するほどの袍服でした。
このような融合現象を「満漢融合」といいます。このことは、民国期での旗袍人気の前奏曲になりました。
西洋インパクト
旗女・満女と漢女の服装は、斬新な方法と装飾的な方法をシンクロしながら反映し、清代前半の対比が消滅しました。この満漢融合には、単に満族と漢族の融合とみる説と、西洋インパクトととらえる説があります。折衷好きの私としては、つまりトライアングルだったわけだと、まとめたくなります(笑)♪
ただ、一気にまとめる前に少し清代末期から民国初期の様子をみていきましょう。
清代末期には、西洋のファッションや生活様式がだんだん浸透し、服飾も西洋風な簡素になりました。
北京は清王朝の首都で、西洋ファッションの影響を直接には受けませんでした。影響を受けたのは南東海岸の港湾都市で、変化は比較的小さいものの、はっきりと影響を受けました。とくに、礼服の簡素化や馬蹄形の袖口の取り外しなど、服飾に関する規制制度は以前より緩くなりました。
女性袍服に増殖するパイピング
清朝後期、旗人の女子たちが着ていた長袍は頑丈で広い幅をもち、身体ラインはストレートで、丈は足首まで伸びていました。
領(カラー)には「元宝領」がよく使われました。高さは頬を覆い、耳たぶに触れていました。
袍服にはさまざまなパターンが刺繍されていました。領(えり)、袖、大襟、スカートには複数の広幅パイピング(镶滚)が施されていました。同治帝や咸豊帝の時代にピークに達したパイピングは、衣服全体にレースが使われていました。
刺繍とパイピングが過剰に増えたので、もともとの衣服や衣服の生地がどういうものかを特定することはほとんど無理でした。旗袍の装飾はかなり複雑になっていたのです。
満漢合壁と満漢融合のくりかえし
順治帝と嘉慶帝の治世中に出された二次禁止から、満族女性たちが漢族女性たちの服装を模倣する禁止によく違反していたことがわかります。
清代の本来の伝統衣装は、女性服では、上下連属(ワンピース)の袍服のスタイルを固持するようになりました。満族の婦女は、上衣にスカートをあわせる漢式の衫(服)を着るのを固く禁じられましたが、冒頭で書いたように規制を受けたのは漢女のうち旗女に属する女性たちだけです。
清末には、満族と漢文化が長期に融合して、満族扶助の旗袍はスタイリッシュになっていきました。その過程で、いくつかの変更と改善がありました。
旗袍という言葉の意味からすると、旗袍は一般的に旗人(男女問わず)が着る長い袍服(長袍)をさしますが、後の世代の旗袍に関連するのは八旗女性が着ていた長袍だけでした。男性の長袍よりも女性の方が刺しゅうやパイピングが華美だった点が目立った違いでした。
清代から中華民国へ
同治帝や咸豊帝のころ、清王朝は崩壊寸前で、国力は内外の理由から衰退していました。帝国主義の圧力は清朝の閉じられた門を突破しました。いわゆる開国開港です。
朝廷の危機を救うために、清朝の洋務派たちは「中学(中国の伝統的学術)を体(根本)とし、西学(西洋の近代的学術)を用(応用)とする〉」戦略、いわゆる「中体西用」論を打ち出し、多くの学生を留学させ、軍政を改革しました。
このため、中国では学生と兵士のあいだで、西洋風の体操服、体育帽、軍装・軍帽がはじめて登場しました。洋装の輸入は、美的基準に新しい枠組みを提供しました。そして、社会的な服飾概念が変化していきました。
いずれ、旗袍は中国と西洋のスタイルを融合させた新しいスタイルに進化し、洋服の影響下で変化していきます。旗袍の洋服化に先だち、学生服や軍装が洋服化したのでした。
そして、1911年、辛亥革命が勃発しました。
革命によって、中国では洋服の普及に対する政治的障害が取り除かれました。また、服制が風化して、階層レベルでのあらゆる種類の奇抜な束縛がなくなりました。衣服は平民化して、国際的で自由な変化が自然になりました。
旗袍は重い伝統を軽減しました。満族統治体制がおわり、旗袍を着る人は一時的に減りました。洋装と中国風衣装が喧騒で賑わいました。
そんななか、古いスタイルの旗袍は放棄され、新しいスタイルの旗袍が発展しはじめました。ファッションの中心は、蘇州と揚州から上海へ移っていきました。貿易港の上海は雑居街として賑わっていきました。
コメント
こんにちは本日アップされていた記事、早速拝見しました。
https://qipao.news/han-chinese-women-also-wear-qipao-in-qing-dynasty/
最後の部分で気になったことがあったので連絡しちゃいました!
「旗袍には、漢族が縁起よしとする模様や刺繍技法をとりいれました。」
とあるのですが、具体的にはどのような模様なのですか?
刺繍の歴史は全然知らなくて、ドラゴンや蝙蝠や金魚と漢族の刺繍に該当するのでしょうか…?
満足と漢族の服が融合したという話がどの本にもよくあって、大体そう言われている通りに簡単に書いて逃げたつもりでした爪が甘かったのでちょっと調べてみますね。
この辺の融合ってあんまり詳しく書いていないですよね形はともかく、刺繍までいくとほぼ見たことないですいつも私の疑問を調べてくださってありがとうございます…!私も調べてみます!
こんばんは。何冊かの本に当たってみましたがギブアップ。ネットでも吉祥文様ばっかりで、何が吉祥かを書いてくれてません。
ドラゴンやフェニックス(鳳凰)などは吉祥の代表ですね。ただ清の時代の旗袍(とくに天子の龍袍)に龍の文様があったとはいえ、満漢融合後、一般的に普及したかは別なので、ギブアップ。
こんばんは!詳しく調べていただきありがとうございます!
龍袍の謎!清朝から龍の刺繍があったのは本で読んでいたのですがそれがいつから普及したのか微妙に書いていないんですよね。やはり謎が多い。
もしこれが満漢融合後の話だとしたら、やはり私の中国服たちは漢服の要素がかなり強いことになりますよね。