立領の発生をさぐり旗袍の形態起源をつきとめる

定義と研究
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袍服(旗袍)が立領をもったのは遅くて清代末期だとは分かっています。

今回は立領の発生をそれ以前にさかのぼれるかにチャレンジして失敗した記録です。

1926年の文学界で旗袍の言葉はたくさん出てきました。また、1929年には民国服制が制定され、旗袍の言葉と形態が確定しました。

清代と民国期にまたがり、旗袍を旗袍にさせている構成要素は次のとおりです。

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旗袍の構成要素

旗袍の形が清朝期からどれほど変化しても、変わらなかった点があります。これを普遍的な要素といいます。

旗袍の構成要素は次の4点。チャイナドレスの特徴です。

  1. 立領(チャイナカラー)
  2. 大襟
  3. スリット
  4. チャイナボタン

最近では、4つ目のチャイナボタンを横ファスナーに代替することが増えています。

また、大襟を装飾にして着脱を後ろファスナーにしたものが増えています。

旗袍の言葉はたどりやすいですが、旗袍の形態となると、上の構成要素がいつ形成されたかを丁寧に論じた文献はありません。

袍服(旗袍)が立領をもったのは遅くて清代末期。

根拠はこれです。

清代末期の彩色刺繍され広いパイピングをもつ旗袍。孫彦貞『清代女性服飾文化研究』上海、上海古籍出版社、2008年、79頁。

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なぜ立領に注目するか

そこで、このページでは構成要素の形成を確定します。上の構成要素4点のうち、史料的に確証しにくいのが立領です。

大襟、チャイナボタン、スリットは、清代以前から存在しました。このことはどの文献を見ても、だいたい確認できます。

また、大襟、チャイナボタン、スリットは資料が残りやすいのですが、立領となると、取り外し可能だった中国の場合、歴史遺物として残らないこともあります。

清代の袍服にある円領(盤領)は、取り外しのできるテープ状の領をつけているものもありました。歴史遺物に立領がないからといって、清代袍服に立領がなかったとみなすことは間違っています。

そこで、立領の発生をさぐれば旗袍の形態起源をつきとめられます。

ときに、起源の追求は嫌らしい側面があります。人の過去を穿り出すようなもんです。

しかし、このページでは形にかぎって、旗袍の構成要素をつきとめてみようと思います。なぜなら、日本語文献でも中国語文献でも、いつも旗袍の起源を清代に求めるのに、丁寧に説明したものが存在しないからです。ましてや、立領の発生を追求した研究はありません。

もっとも、根拠のない仮説はいくつかあります。

たとえば、丸領の周囲に立領が現われたのは清代中期という説です。こういう仮説を少しずつ検証したり確認したりしましょう。

ぱおつ
ぱおつ

民国旗袍の丸い立領の土台は円領(盤領)です。円領は無領ともいわれます。この上に領を縫いつけたわけです。立領の発生を追求するには円領にも注目したいところです。

栄憲公主王女の墓から出土した清代初期の袍服

清朝初期の刺繍された女性の袍服が、内モンゴル白音尔灯にある荣完公主(栄憲公主)王女の墓から発掘。中国华文教育网-民国的服饰

清代初期、旗人・旗女の着ていた旗装袍は、おもに円領(盤領)だけど立領がなかったといわれます。

たしかに、栄憲公主王女の墓から発掘された清代初期の袍服をみても、立領はありません。

とはいえ即断はできません。

この袍服は円領に沿ってパイピングが施されています。もし、テープ状の立領の反面と縫合していたかもしれないのです。

現物では円領と立領が切り離れている可能性がありますから、肖像画が無難な資料となります。

清代初期:荘妃(のちの孝荘文皇后)の肖像画から

次の肖像画は、清朝4代皇帝康熙帝の祖母である荘妃(のちの孝荘文皇后)の肖像画です。

立領風の折襟あり。一番アウターのコートは対襟か。清朝4代皇帝康熙帝の祖母である荘妃(のちの孝荘文皇后)の肖像画。Palace Painter, Public domain, via Wikimedia Commons

円領(盤領)があります。

ただ、一番アウターのコートは対襟にみえるので、大襟を構成要素とする旗袍(または袍服)の立領だとは確定できません…。

また、インナー(内衣)の立領とも考えられますが、肖像画では細部が分かりにくいですね…。

もっとも、その内側の服が袍服かどうかは、なかなか調べても分かりませんが。いずれ、この辺も中国服装史や中国衣服の研究でクリアにされることを祈ります。

皇族に属す孝荘文皇后は1688年(清代初期)に亡くなっています。清代中期に目を向けましょう。

ぱおつ
ぱおつ

まだまだ調査不足ですが、17世紀に、縫いつけの立領か取り外し可能の立領はなかった前提で話を進めます。

 

清代中期:品月緞暗菊蝶単袍から

台湾のアート系ウェブ「Artouch Inc」に、「清宮時尚,花樣旗裝:瀋陽故宮藏清代后妃旗袍」という期待させるタイトルの記事があります。

これを見てみます。

清代中期には、円領に加えて、細い立領があった。(中略)1894年から1895年にいたる日清戦争の後、袍服は古いシステムに変更しはじめ、「短い袍服に狭い袖」と高い領が流行しました。

濃い青色を低い立領(細い立領)とみるか、レースのパイピングとみるか…。清宮時尚,花樣旗裝:瀋陽故宮藏清代后妃旗袍 | 典藏 ARTouch.com

https://artouch.com/views/content-11537.html

引用文を信用すれば、清代中期には立領が存在したことになります。

たしかに、この説明に添えられている青色の袍服をみると、濃い青色の低い立領(細い立領)があるように見えますが、これをレースのパイピングとみなすこともできます。すると円領となり、つまりは無領です。

説明文には、相応しい画像をもってきてほしいところ。

ぱおつ
ぱおつ

なかなか辿りつけません…。

清代末期:複数の広いパイピング旗袍から

結局、はじめにふれたように、清代末期に袍服(旗袍)は立領をもちました。

つぎの写真は「atelier-leilei」に旗袍をオーダーしてきたお客さんの希望メモです。写真2点を添えて注文されました。この立領はかなり低く、2cmほどと思います。

「atelier-leilei」に旗袍をオーダーしてきたお客さんの希望メモ。atelier leilei提供。

この写真あたりが、旗袍の構成要素4件をおさえた原型といえましょうか…。

清朝末期に、この低い立領を領巾や巻領といいました。

二つには少し違いがあります。

朝廷の礼服は円領(盤領・無領)から領巾に代わりましたが、巻領とはいわず、マフラー代わりのかなり高い立領だけを巻領ということもあります。今までみてきたように、領はややこしく、清朝期を舞台にしたドラマや映画でも誤用が頻出。清代初期に領巾や巻領が出てくる始末…。

さて、冒頭に掲示した赤色の派手な旗袍をふくめ、清末の広いパイピング旗袍を集めた記事が「图解 : 近代旗袍发展史」がオススメです。ラフスケッチで旗袍の歴史をまとめています。冒頭の旗袍のほかに、似た旗袍2点が掲載されています。ついでに民国旗袍はたくさん掲載されています。

ぱおつ
ぱおつ

うーん、それにしても、まとまった重厚なページがない…。

しゃんつ
しゃんつ

中国は資料と文献が多いので、調査や研究となると散らばるか、同じことを繰り返し話すか、どっちかになるんでしょう。あと、私たちが依拠している文献は通史が多いので、かなり被ります。

それで、どの文献でも清末、清末、清末というのですが、いつなんでしょうね(笑)。そこ、西洋化とも関わるのですから、詰めてほしいところ。

今回はおもに清代の女性袍服(旗袍)のうち立領をたどりました。

それでは、清代の女性袍服はどんな変化をしたのでしょうか。満族と漢族でどんな違いがあったのでしょうか。

これらの点は「旗女と満女と漢女の衣装:清代に漢族女性も旗袍を着用」に書いているので、あわせてご覧ください。

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この記事の著者
ぱおつ

旗袍好きの夫婦で運営しています。ぱおつは夫婦の融合キャラ。夫はファッション歴史家、妻はファッションデザイナー。2018年問題で夫の仕事が激減し、空きまくった時間を旗袍ラブと旗袍愛好者ラブに注いでいます。調査と執筆を夫、序言と旗袍提供を妻が担当。

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