1980年代・1990年代の旗袍の歴史を一言すると、制服旗袍とファッションショー出場です。
10年間の大惨事がおわり、中国のファッション界は春を迎えました。1980年代をとおして、旗袍(チャイナドレス)が人気になると予測する人もいました。
社会が高度化するにつれ、人々の美を愛する性質はそれほど多くのものに縛られず、旗袍には生き残りと発展の余地がありました。旗袍は再び人々に好意をもって戻ってくるともいわれました。
しかし、意外にも、旗袍は再び人気を博しませんでした。着る人はごくわずかでした。
旗袍の全盛期は遠く30年間も放置されていて、1980年代の改革解放後には少し時代遅れになっていたようです。
1980年代は文革時の衣装をひきつぐ一方で、洋服が普及していった時期です。その分、旗袍に残された可能性は、少しでも注目されるキャパだけでした。そのキャパに旗袍はどのように食いこんでいったのでしょうか。
西洋文化への憧れ
それ以前、中国人は長年にわたって自立更生してきたので、新しいものと接触して熱心に外国のものを追求しはじめました。ワンピース・スカート、フレアパンツ、ヘアスタイル、靴など、頭からつま先まで西洋を模倣しました。
この時期の人々は、一般的に落ち着きがなく、未来に憧れ、外の世界を切望していました。彼らは旗袍の古い夢を追体験できる衣服をもっておらず、そのままでは旗袍が街の美しさになることはありません。
1950年代に、旗袍はレーニン服と軍装にとって代わられていました。
そして、それは軍隊の生命と単純さをマークしました。
それから、旗袍は花が落ちて水が流れる春のように去っていきました。
30年後、カスタムメードやテーラーメードの旗袍をつくっていた職人はすでに転職していて、旗袍の職人技に堪能な人はほとんどいませんでした。また、文革を避けたために香港や台湾へ移転した裁縫師や服飾店も多かったのです。
『每日头条』の「老照片:实拍改革开放初期中国大陆的模特」には、路上ファッションショーの写真16点が載っています。
このうち、スポーツウェアが3点、チマ・チョゴリが1点、旗袍が1点、ほかは洋装か民族衣装をまぜた洋装です。
職人旗袍の芽生え
旗袍の専門知識が高いことで知られる上海で、旗袍その他の中国衣類の製造を主張した店は、ただ一つ「龍鳳旗袍」でした。
龍鳳旗袍の最近の動向はこちらのニュースに詳しいです。
- 【創意工夫と職人技】昔ながらの龍と鳳凰のチャイナドレス:「贅沢」からどれくらい離れているのか?
- 龍鳳旗袍の第4代相続人である焦义刚:時間とともに優雅さを縫う
- 【移転】龍鳳 | ショッピング・買物-上海ナビ
このようにして、旗袍は失っていた、必要な生産技術の基盤をとりもどし、再び人気を博そうとしました。
1980年代の旗袍や民衆衣装の写真をネットで見つけるのは一苦労です。妻のLeileiに尋ねたところ、1980年代の旗袍を一つ持っているとのこと。
この写真は、大連豊満服装廠(大连丰满服装厂)の製作したシースルーのベルベット旗袍です。
1980年代初期、Leileiの父が大連に出張したとき、母に買った旗袍。1989年に母が来日したとき持って来ました。
この旗袍は接袖の長袖です。立領はそこそこの高さ。チャイナボタンは領と大襟に1つずつ、そして身頃横に6つか7つ、ついています。デザインで素晴らしいのは、归拔を使ってボディコンシャス化を図っている点です。そのため、バストダーツもウエストダーツもなく、補助用のスナップボタンもありません。
さて、1980年代、こういう確かな品質の旗袍もあったのですが、だいたいは手抜きか単調な旗袍が多かったようです。
ブロケードやアンティーク・グレードなど、旗袍製作に使う伝統的な素材は、1980年代や1990年代のファッションと相容れなかったと聞きます。
また、メーカーは新しい生地を見つけることにあまり熱心ではなかったそうです。こういう経緯から、1980年代に旗袍の人気が戻りきらなかったのでしょう。
人々のライフスタイルの変化も旗袍の人気に影響を与えました。
1980年代から1990年代にかけて、女性の就職範囲が広がり、アウトドアスポーツが盛んになり、生活ペースが加速しました。現代社会における女性の理想像は、若々しい活力に満ちた美しさです。
これらすべては、旗袍が染み出した優しくエレガントなものと調和しませんでした。この非対称性は、旗袍が今日のファッションを導く主流ではなくなったことを最終的に決定づけたものでした。
劣化旗袍の登場
しかし、1980年代と1990年代には、別の意味でプロ意識をもつ「制服旗袍」が登場しました。
宣伝と販促の目的で、娯楽の場でのエチケット女性、歓迎の女性、ウェイトレス、ホテルやレストランでは、従業員はすべて旗袍を着ていました。
このような旗袍の構成部分は同じで、化学繊維、合成シルク生地、明るい色、深く開いたスリット、そして粗製乱造的な技術を使っていました。
このようなことは、人々の心のなかの旗袍の美しいイメージにかなり有害でした。自分達のアイデンティティをはっきりする人々にとって、旗袍を急いで着る必要はありませんでした。
旗袍が普及しなかった理由はたくさんありますが、1980年代から旗袍の地位は確かに高まっています。
結婚式、宴会、訪問、テレビ番組など、一部のフォーマルで厳粛なオケージョンでは、旗袍はフォーマル・ドレスと見なされました。
ファッショナブルな旗袍や旗袍の風味を取り入れたファッションは、この時代のデザイン界の焦点の1つでした。旗袍は、ファッション雑誌、ファッションショー、コンテストのエントリーによく登場しました。
フォーマルウェアとして定着した旗袍は、とくに脚部のゆとりを失ったので、早く歩くことはできなくなり、大きな動作や運動もできなくなっていきました。
同時に、有名なデザイナーも登場しました。
有名デザイナーの登場
李艳萍
北京から深圳に移った李豔萍(李艳萍)は、ファッション旗袍のデザインとマーケティングを利用して人々の注目を集め、報道されました。
彼女は、ボタン、刺繡、滚(ローリング)、镶(パイピング)などの伝統的な制作技術に精通していたうえ、絞り染め、筆染め、バティック、手描き、書画の技術を旗袍のデザインにとり入れました。
旗袍の領のライン、大襟(門襟)、肩の成型、ウエストライン、ウエスト造型などの処理がかなり変わりました。
個人的なファッションデザインショーを開催した最初のデザイナーとしても知られています(1984年)。
1986年1月、日本の高島屋百貨店で開催された第5回「グレートチャイナエキシビション」展に、改良旗袍を出典。「大中国展」にチャイナ服が展示されるのはこれが初めてで、海外の若い中国人女性が開催する最初の衣服デザイン展でもありました。
姚紅
1983年、デザイナーの姚紅(姚红)は、「時装」(时装)誌と日本の「装苑」誌が共同で主催した第1回「中国ファッション文化賞」デザインコンペティションに参加しました。
姚紅の作品は清風の旗袍の味わいで、ゆったりした直線、寛大なAラインの袖、白いシルク地に紺色のベルベットの镶滚(線入り縁どり)を施し、清朝官服にあった「水たまり模様」を引き立てました。
姚紅の作品の受賞は、旗袍に対する中国衣服産業の審査員や当局の期待に応えました。
デザイナーたちの限界
1980年代と1990年代に、女性の理想的なイメージは再び変化しました。肩が平らで腰が狭く背の高い細身の体型は、人々が切望していたものです。また、朋街服装店のような古い裁縫店も地味に活躍していましたが、往来の上海時代を取り戻すことは難しかったようです。
1930年代と1940年代を舞台にした映画やテレビドラマでは、現代旗袍の「改訂版」が登場しました。明らかに、これは1980年代と1990年代の美学を過去の時代に押しつけたデザインでした。この点で、新しいデザイナーたちの技量では限界でした。
上海ファッションモデル・チームの活躍
旗袍は、中国女性の姿や気質をよく引き立たせることができます。
1984年に、上海ファッションモデル・チーム(上海的时装模特队)が初めて海外へ行きました。旗袍の美しさはあたたかく歓迎され、海外で注目を集めました。改革開放後の中国の服装規定の変化が伝わり、米国、ヨーロッパ、日本のキャットウォークを歩きました。このモデルチームを表した映画「黒蜻蛉」も上映され(監督は鲍芝芳)、中国での人気もさらに高まりました。この映画は「电影 黑蜻蜓 (中国模特的早期) 陈烨 宋佳 邬君梅 巫刚」と題してYoutubeで視聴可能です(2021年8月16日現在)。
また、同じ1984年には上海シルク・ファッションショー・モデル・チーム(上海丝绸时装表演队)も結成され、欧州、東南アジア、日本で好演しました。
ファッションショーすべてではありませんが、中国のファッション界を強く後援したのは、フランスのデザイナーだったピエール・カルダン(Pierre Cardin)でした。
1985年、カルダンは中国人モデルのグループをパリに連れていきました。モデルたちに旗袍を着せ、中国の文化やスタイルを西洋に紹介しました。カルダンは、中国政府の許可をえて、パリのファッションウィークで9人のモデルをキャットウォークに送りました。
このように、アンナ・メイ・ウォン以降、旗袍は久しぶりに海外で知名度を高めました。
伝統文化が急速に失われていた1980年代・1990年代、中国の象徴として世界に向けて発信できるファッションは、やはり旗袍でした。
その一方で、中国内で旗袍の人気はあまり回復しませんでした。
黄金時代の1930年代・1940年代にくらべての話ですが。1970年代に一部ではじまった改革開放路線は1990年代に中国全土へ拡大しました。海外で中国が注目されていくなか、中国では海外を注目するようになったからです。
国内で旗袍を宣伝する試みも、いちおう、ありました。次の記事は中国重慶市のニュースです(重庆第一支职业模特队的“美少女们”,33年后队员喊你集合啦!-上游新闻 汇聚向上的力量)。
これによると、1986年に鳳凰モデル・チーム(凤凰模特队)が設立され、当時のモデルたちの今を追った特集です。
このモデル・チームは重慶初のプロのファッションモデル・チームでした。10代末の女子たちがおもにメンバーだったとのことです。
旗袍(チャイナドレス)が国際デビュー
1990年代になると旗袍(チャイナドレス)が国際デビューを果たしました。
ファッションデザイナーたちは構造を露骨に借用するほど、旗袍の影響力が高まっていました。
とくに人気デザイナーのジョン・ガリアーノが中国のイメージを構造転換しました。
メリヤス・チャイナドレス
有名な作品は「メリヤス・チャイナドレス」です。
ジョン・ガリアーノは20世紀のメリヤス技術を旗袍に加えました。モヘア糸で身体にぴったりなチャイナドレスを作りました。真珠を使って襟元に飾りました。
ニット生地の伸縮性をうまく活かして、チャイナドレスにつきまとうオーダーメイドの伝統的手作業のイメージを覆しました。
花様年華
2000年になるとウォン・カーウァイ(王家衛)監督の映画「花様年華」が公開されました。
この映画は旗袍にべつの新しい波をもたらし、レトロ上海のチャイナドレスの雰囲気をひろく伝えました。ニューヨークの「上海灘」のブティックでは映画のなかで着たチャイナドレスを展示しています。
小括
このように見てくると、20世紀中国旗袍の歴史は、1910年代のリスタートから、1930年代・1940年代の黄金時代と1950年代の一時復活をピークに、下り坂にさしかかっていたと思います。
中国の女子大生たちの寮での衣装をたどった記事を見つけました(实拍:中国女大学生宿舍的变化史,80年代前卫时髦)。これを簡単にたどるだけでも、20世紀前半の旗袍ブームの再来は難しいと痛感します。
21世紀への展望
1世紀続いた旗袍はいまも進化を続けていますが、それでも強い中国風・中華風を維持しています。
この粘り強い活力は他の伝統衣装に匹敵しません。1990年代には旗袍が広がり続けることは間違いないと思われていました。
1980年代・1990年代の中国大陸での旗袍復活は緩やかでした。
他方、文革のために大陸から東南アジア、台湾、香港などへ逃げたドレスメーカーたちは継続して営業していました。
21世紀初頭の旗袍文化は、大陸の外の華僑や華人たちと中国大陸の人たちがシンクロして(同時進行して)、世界中で花開いたと私は考えています。美しいタイアップでした。
2010年ころ、旗袍着用者の高齢化のなか、若い旗袍デザイナーたちが活躍する場が設けられました。彼ら・彼女らはいまのチャイナドレス・ブランドをリードしています。
2000年代・2010年代、旗袍にとって厳しい時代がどう展開したかを次の記事でたどっています。
それでも、2010年代から旗袍文化が高齢化する一方で、旗袍は洋服だけでなく漢服にも押されはじめていきました。
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