政治的な社交面でも、日常生活でも、1950年代に旗袍ははっきりと復活しました。
刺繡、アップリケ、手描きなどの手芸の喜びは、当時の写真によく反映されています。
しかし、旗袍は次の20年間で輝きを失いました。
この時期の中国人の服装は「青蟻蚊」や「灰色の蟻」の世界でした。昔の旗袍のシルエットは煙の雲のようにぼんやりして、香りの痕跡もありませんでした。
10年間の大惨事では、大胆な人が旗袍を持っていたとしても、箱のなかに静かに寝かせるしかなかったのです。旗袍を着ることは、当時の人にとって夢にもみませんでした。
このページでは、文化大革命の最中と終了後に、旗袍がどんな扱いを受けてきたかをたどります。
文革前後の旗袍は混沌としていましたが、フランスのとあるデザイナーが旗袍に輝きを見出したのでした。
文化大革命と旗袍
1966年から1976年まで続いた「文化大革命」は、伝統文化の大惨事でした。そして、チャイナドレスにとっても惨事でした。
「文化大革命」は、旗袍が本土で人気をなくした直接の理由になりました。
1950年代後半から1960年代初頭にかけて、政治的に敏感な人々の多くは、大嵐が来るまえにすでに前触れを感じていました。そして、予期しない出来事を防ぐために、古い文化である旗袍を静かに隠していました。
案の定、嵐はすぐに襲いかかり、旗袍は攻撃の標的となりました。
旗袍は「封建制のドロス」や「ブルジョア階級の情緒」として非難されました。つづく「破四旧を滅ぼす」という大波のなかで、絶妙で優雅な旗袍がどれほど引き裂かれ、旗袍に愛着のある女性が何人パレードさせられ批判されたのかはわかりません。
ただ、西洋風や資本主義風のレッテルを旗袍に貼ったところで、区別のジレンマからは逃れられませんでした。
文革で推奨された折り領や折った立領の多くは、旗袍とは異なった形でしたが、西洋服の影響を受けたものでした。また、セットイン・スリーブがよく使われていましたが、これは西洋から入ってきた袖つけの技法でした。
次に確認する映画「小さな中国のお針子」は、西洋裁縫技術をほとんど使っていないといえる衣服が登場します。ただ、上衣部分は旗袍に近いものになっていて、やはり文革のもっていた区別のジレンマが目立ちます。
映画「小さな中国のお針子」のチャイナ・ブラウス
文化大革命によって旗袍は概ね禁止され、その上半身部分をジャケットにしたチャイナ・ブラウスが下衣のズボンとともにツーピースとして普及します。
文革期農村の男女を題材にしたダイ・シージエ(戴思杰)監督の映画「小さな中国のお針子」(巴爾扎克与小裁縫/Balzac Et La Petite Tailleuse Chinoise)では上のような衣服が登場します。
これは上の場面のように2部構成が念頭に置かれ、文革の指導方針通り運動性を確保しました。ブラウスも機能性を確保するために、接袖では無く連袖になっている点に注意してください。
王光美
旗袍の影響を受けた人々には、女性幹部や国家指導者も含まれていました。そのなかには、劉少奇夫人の王光美もいました。王光美は旗袍を着ていることで有名でした。
旗袍は、中国をイメージするドレスとして、公式訪問や外交の際に着用されました。 人々の印象では、王光美のイメージは旗袍に関連づけられています。
王光美を批判するとき、批判者たちは彼女に低品質のチャイナドレスを侮辱的に着させて、卓球ボールで作った大きな「ネックレス」を掛けて美しさを極端に誇張しました。明らかに悪意のある皮肉でした。
旗袍にかんする女性の優雅さは、時代の雰囲気と相容れないものでした。旗袍の優雅なイメージに適さない時代に、王光美より幸運な素晴らしい女性たちがいました。
その女性が宋慶齢です。
宋慶齢
宋慶齢は生涯、旗袍を愛し、旗袍を決して手離しませんでした。 彼女はゆったりした旗袍を着て、さまざまなフォーマルな行事に出席しました。彼女は家にいてもチャイナドレスを着ていました。
宋慶齢の特別なアイデンティティのために、彼女は混乱と迫害をうけず、旗袍を自由に着ることができたのです。宋慶齢の生涯の写真をみると、過去数十年にわたる旗袍の変化をたどれます。
しかし、1960年代・1970年代には、「レーニン服」やその他のファッショナブルなドレスを着る方法が他にもあったのですから、当時の旗袍は1940年代のスタイルに固執していたともいえます。旗袍自体にスタイルの変更はなかったのです。
ベッドの下に隠した旗袍には、人気がないどころか、スタイルを変更すらされません。
1960年代・70年代に着た旗袍を熱心に語る人もいれば、ひそかに旗袍を懐かしく思う人もいました。でも、ほとんどの人は旗袍を公然とまたは密かに隠すように教えていました。
この時、旗袍は街路の光景で恥ずべきシンボルになりました。
逮捕された「覇王別姫」(さらば、わが愛)の主人公「程蝶衣」(チェン・ディエイー/飾レスリー・チャン)のような「頑固な」老人は、パレードに引き出されたときに旗袍を与えることを忘れなかったでしょう。
引き裂かれた古いチャイナドレスは「赤い腕章」に囲まれ、過去に比類なき魅力は、長いあいだ薄暗くなり、荒廃と感傷を加えました。
熱狂的で激動だった1960年代と1970年代には、グレー、ブルー、ブラック、グリーンのユニフォームが本土の「ファッション」でした。
ミリタリーキャップとレザーベルトは若者に最適でした。女の子とたちは赤い服<紅装>は好きじゃありませんが、武装していました。当時の中国人の服装は次の記事が参考になります。
(補足)宋家三姉妹について
宋家三姉妹が旗袍に果たした役割は大きかったです。抗日戦争期の政治的役割から女性・子供の教育活動まで、幅広く活躍しました。その時によく着ていたのが旗袍でした。
また、1960年代・1970年代、中国大陸での旗袍の不人気にもかかわらず、公的な場でも私的な場でも、こよなく旗袍を愛したのが彼女たちでした。
3人の宋姉妹は皆、旗袍を着るのが好きでした。彼女たちは旗袍を着るのが大好きでした。旗袍こそ、中国女性のスタイルを描いていたからです。
文化大革命の終わりと停滞
1970年代に取り残された女性たちのイメージは立つ場所がなく、旗袍も逃げにくい運命にありました。
1970年代後半の人々は、服を間違えることを心配する必要はなくなりましたが、派手な服を着ることはなく、トレンドを追いかけるのが好きになり、心理的な固定観念をもちました。
服はまだ鮮やかでなく、旗袍は、まだ寝箱の底に収まっていることが多かったです。好奇心から母親の古い旗袍を試着して、家で写真を撮った若者もいました。でも、あえて外で旗袍を着る人はほとんどいませんでした。
他方、海外の華僑社会は「文化大革命」の混乱を経験せず、衣装文化は、より伝統的な色を保持できました。旗袍は今でも着られています。
古いディテールは一新され、ますます精巧になっています。 1953年から1961年までに旗袍は標準化し、デザインは曲線を強め、裾は花瓶より小さめのものが人気をもちました。
さて、旗袍が地味な地位から国際舞台へとのぼっていく過程をみてみましょう。
1970年代後半以降の旗袍の人気
米中国交正常化
1972年2月、ニクソン米大統領が中国を訪問しました。
米国政府と中国政府は上海で「米中共同コミュニケ」を発表し、米中双方の20年以上にわたる断絶と対立がおわりました。
中米関係は正常化にむかいました。「平等互恵、平和共存」の原則は両国の外交関係を発展させました。
1979年1月1日、中米は正式に国交を樹立し、このあと、中国国務院の鄧小平副総書記は米国のジミー・カーター大統領の招待をうけて訪米しました。
鄧小平は中華人民共和国成立後に訪米した中国の最初の指導者となりました。そして中国の外交的地位が高まりました。
旗袍の国際デビュー
このような政治的な背景のなかで、旗袍は国際的なファッションショーに何度も登場し、数々の賞を受賞しました。
世界的に有名な多くのファッションデザイナーからも賞賛され、旗袍の独特の魅力はデザインに影響を与えてきました。
マーク・ボアン
1970年代にクリスチャン・ディオールのチーフデザイナーだったマーク・ボアンは、1975年に声明を発表しました。
「流行の服装は若者を目標にしなければなりません。パリでは『中国風』が流行しています。私ももちろん見逃すことができません。」
ファッションデザイナーが中国のイメージを用いて服装デザインに表現する時代がやってきました。
ピエール・カルダン
鄧小平の訪米から2か月後の1979年3月、フランスの著名なファッションデザイナーのピエール・カルダンは12名のモデルをつれて北京と上海で服装発表会を行ないました。
ピエール・カルダンはかつて、中国の旗袍のスタイルとパターンに触発されたことを認め、インスピレーションから多くの作品をデザインしたことを語ったことがあります。
「私がデザインするイブニング・ドレスは、旗袍にかなり触発されている」。
イヴ・サンローラン
イヴ・サンローランは1977-78年秋冬のコレクションで、錦の布地に金線の刺繍とフリンジの装飾をダイレクトに加えた筒型の外套を発表しました。これにも中華風が影響を与えています。
ほかにフランスのディオール、アメリカのラルフ・ローレン、イタリアのバレンチノ、ヴェルサーチ、日本のイッセーたちも同じです。
まぁ、シルエットをみれば、ヨーロッパのイブニング・ドレスって旗袍風ですよね。どちらもストンとスカート部分が落ちたようなロングのワンピースですから。単色の旗袍だと、なおさらイブニング・ドレスになります。
次の記事は、カルダンがはじめて中国に来たときの様子をくわしく説明しています。外部サイトです。
結論
1950年代・1960年代は香港旗袍の黄金時代といわれます。
文化大革命のはじまった1966年、香港ではハイカラー、ハイスリット、ボディコンシャスといった特徴を失いはじめ、もう少しラフな旗袍に変わっていきました。大陸と香港のシンクロした旗袍停滞を思うと、政治的に旗袍が排除されたというよりも、タイトな服を着ることへの感覚疲労が、広域に進んだとみるべきでしょう。
20世紀香港の旗袍は、次の記事に詳しくまとめておきました。
あわせてご覧ください。
旗袍はヨーロッパやアメリカのファッショントレンドの影響も受けて、「ミニチャイナドレス」は膝上20cmと短いものも登場しました。 海外で旗袍の人気が高まったため、1980年代から旗袍は、よりフォーマルな服装として使われるようになり、香港や台湾の女性たちは旗袍を日常のカジュアルな服装として使っています。
フォーマルウェアとして定着した旗袍は、とくに脚部のゆとりを失ったので、早く歩くことはできなくなり、大きな動作や運動もできなくなっていきました。
私がピエール・カルダンやアンドレ・クレージュが好きな理由が分かった気がします。シルエットが旗袍に似ている作品が多いからです。Hラインとか、それに近いAラインとか。ほかにパイピングも。
1970年代の西洋ファッションデザイナーたちはイメージにとどまる中華風のデザインを援用していました。
1990年代になると構造を露骨に借用するほど旗袍の影響力が高まっていきます。
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