テレビがなく、新聞がとても小さく、雑誌の種類が少なかった時代でも、広告の認知度は決して失われていませんでした。今回から何度かにわたり、マンスリー・カレンダーや絵葉書を紹介していきます。
カレンダー・ポスターという人もいれば年間ポスターやマンスリー・カレンダーという人もいました。
今ではビンテージ・ポスター(古いポスター)やアドバータイジング・ポスター(広告ポスター)といわれます。
マンスリー・カレンダーの流行
マンスリー・カレンダーの誕生は、近代中国の開港後、1940年代にさかのぼります。外国製品の投機に専念した外国人ビジネスマンたちがマンスリー・カレンダーを配布しはじめました。
当初は西洋人モデルのイラストが多かったのですが、だんだん中国人モデルのイラストへと変わっていきました。
マンスリー・カレンダー上でも、旗袍は人気がありました。旗袍美女とカレンダーは互いに影響しあって、強いコントラストを生み出していました。
1920年代・1930年代の旗袍美女たちがマンスリー・カレンダーの時代を作りました。カレンダーは美女マンスリー・カレンダーともいわれました。
1920年代初頭、社会ムードは文明化し、伝統女性の概念が一新されました。それとともに、マンスリー・カレンダーで女性のイメージがかなり高まって、女性の消費財分野が開拓されていったのです。
マンスリー・カレンダー上のテーマ
よく民国旗袍をとりあげるブログでは、「月份牌」という言葉を使っています。これはマンスリー・カレンダーと訳しますが、現物や複製物をみると、旗袍女性が登場するアニュアル・カレンダーもかなり多いです。英語では「月份牌」をカレンダー・ポスターとよぶことが多いです。
このページでは、「月份牌」の直訳にちかいマンスリー・カレンダーで統一していますが、当サイト全体ではカレンダー・ポスターとしていることがほとんどです。予め、ご了承ください。
なお、当時のイラストには繁体字の中国語で商標や企業情報が書かれています。右から書かれているものが多いです。時代を感じさせます。
旗袍
1920年代の終わりには、大袖の旗袍を着た純粋な女子学生がファッショナブルな典型でした。
ファッションの多様化がすすんだ1930年代、マンスリー・カレンダーのファッション・アイテムは不定でした。旗袍、スカート、ズボン、水着がよく使われましたが、美的効果からすると、旗袍が女性のラインや容姿を最もよく示すしました。また、威厳あるエレガントな女性のスタイルも表現しました。
1920年代から1940年代のマンスリー・カレンダーに描かれたさまざまなファッションのうち、旗袍の数が最大でした。そのため、マンスリー・カレンダーは旗袍の流行プロセスを記録したともいえます。
モデル
マンスリー・カレンダーの製作が全盛期だったのは1930年代です。
胡蝶、阮玲玉、李卓湖などの映画スターは、マンスリー・カレンダーのイラスト・モデルに使われました。その一方で、無名や架空のモデルも多いですが。
必須アイテム
映画スターたちは、新たにパッケージ化されたファッション・ビューティーとして雑誌に登場し、都会女性をみるのに慣れた一般の人々は、爽やかな印象をうけました。スターたちは、最新のファッション・アイテムを使っていました。
たとえば、電話、電気ストーブ、ピアノ、マイク、レコード、そしてゴルフ、結婚、水泳、飛行機、オートバイなどです。マンスリー・カレンダーと旗袍の相互表現のパターンがここに集約されています。
宣伝商品とキャラクター・モデルの転倒
もともと商品の普及と宣伝を目的としていたにも関わらず、マンスリー・カレンダーを見ていて面白いのは、イラストの中心を占めたのが商品ではなく、旗袍女性だったことです。
主人公であるはずの商品は、ポスターの下端など、目立たない場所に追いやられていました。ポスターによっては、宣伝商品とキャラクターが関係さえしていないこともありました。
マンスリー・カレンダーの画家たちは、イラストの女性たちをより美しく魅力的にする方法について検討しました。
当時の有名な「インダンスレン布」や「南洋兄弟烟草有限公司」の煙草など、宣伝すべき商品情報がわかりやすくなったのは、マンスリー・カレンダーが人気をもった中期・後期のことでした。それでも、ポスター上の女性の動作や表情はかなり微妙でした。
インダンスレン布
煙草会社のポスターほどではありませんが、インダンスレン布のマンスリー・カレンダーは、たくさん描かれました。とくに藍色の布がポスターによく出てきます。
マンスリー・カレンダーのイラストでは、旗袍はシルクのように扱われ、ペチコートもシルクの質感に満たされています。マンスリー・カレンダーの旗袍とインダンスレンは、とても似合いました。
マンスリー・カレンダーの画家たち
1920年代・1930年代の月份牌業界
マンスリー・カレンダーの制作に従事した画家たちは独自のスキルをもっていました。
中国の絵画法にもとづいて、線をひっかけ色を追加する描画法(勾線加色彩來畫)を使うものがいました。代表的な画家に周慕橋や丁雲先らがいます。もともと水彩画を描いていて、景勝地や史跡のマンスリー・カレンダーも水彩画で描いていた代表的な人物は徐永清です。
杭稚英が鄭曼陀の新しい描画方法を解読してから、多くの画家もしたがい、この方法でマンスリー・カレンダーを描きました。胡伯翔らの少数の画家は水彩画で描くことに固執しました。
民国初期に「擦筆水彩」でイラストを描いた画家には、ほかに周柏生、丁雲先、倪耕野らがいて、そのなかで鄭曼陀は代表的な人物だったのです。
杭稚英
マンスリー・カレンダー画家で「半壁江山」(天下の半分)との評判を勝ちとった杭稚英は、たくさんの旗袍美女を生み出してきました。
杭稚英が描いた廣生行化粧品のポスターで有名なのは次のイラストです。
旗袍姉妹の「雙妹嚜」(双妹嚜)はスリムで柔らかく描かれています。パーマと半袖の旗袍は1930年代に流行しました。袖つけは平肩連袖で、この頃にセットイン・スリーブという洋裁を使った袖つけも流行りはじめていましたが、まだまだ連袖も多かったのです。
このポスターを見た人は、旗袍がファッショナブルなら、「雙妹嚜」化粧品もファッショナブルだと思います。強い消費欲をもったファッショナブルな女子は、従順に廣生行の製品を信頼します。
他の画家たち
マンスリー・カレンダーの他の画家たち、たとえば、鄭曼陀(郑曼陀)、金梅生、関恵農(关惠农)、関祖謀(关祖谋)、倪耕野たちも、旗袍美女の傑作をたくさん描きました。
マンスリー・カレンダーの技法
鄭曼陀の擦筆水彩画法
鄭曼陀がはじめた「擦筆水彩画法」(擦笔水彩画法/筆塗り水彩画)は、マンスリー・カレンダー界で古典的な技法になりました。
これは、線画で輪郭を描いて、木炭粉で線や筆運びを薄め、明暗の変化を消してから水彩を描くものです。レイヤーごとに図を描きます。自然光のもとで立体感と肌の柔らかな質感が出ます。
このテクニックを使うと、女性の顔が白色と赤色の滑らかで繊細なものになりました。
八頭身
マンスリー・カレンダーの人物の身体比率には、今日のファッション画の表現技法と同じように、八頭身のものもありました。この場合、旗袍女子はやや違和感のあるくらいまで頭が小さく、身体が長く描かれました。
マンスリー・カレンダー上の旗袍
今日の視点から見ると、マンスリー・カレンダーは人気ファッションを宣伝するためのファッションポスターのように見えます。イラストの美しさとファッションは、商品よりも人目を引き、忘れられないものになりました。
1930年代のマンスリー・カレンダーの旗袍は、とても体にフィットしていました。生地の模様はファッショナブルでスッキリ。スリットの長さは固定されていません。女性の美しい脚・足が見えたり見えなかったり。
イラストのなかで旗袍の女性の構造も丁寧にデザインされていました。隠したり集中したり、歩いたりお辞儀をしたり、笑ったりするなど、どれも魅力的な表情でした。細部では、服装や皺(シワ)のあり方が不自然なイラストも多いのですが、全体的にみて、旗袍とモデル女性の可愛さや綺麗さは、どのカレンダーにも描かれていたと思います。
いろんな美の要素が統合されていたので、マンスリー・カレンダーの美に対する旗袍の着用効果は、完璧で美しい状態に達していたわけです。発行されていた上海では、カレンダーの甘さ、本質、悲しみ、そして優しさが凝縮されていました。
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