1840年のアヘン戦争以後,19世紀末にかけて清朝の服飾制度は瓦解していきました。
中華民国が建国されてから、1913年10月に「民国服制」が制定されました。この服制では、男性・女性の礼服と便服(普段着)について、形態や生地色などが規定されました。
しかし、「民国服制」は女性に効果が薄いものでした。生地の色を自由にしたり、服の丈を短くして下衣にズボンやスカートを穿いたりしました。
この時期、旗袍を着る人は少し減りましたが、1920年代からはワンピースとして再び流行しました。それとともに西洋裁縫技術が導入され旗袍は洋服に向かいました(西式中服)。
「民国服制」以後、礼服から普段着にいたるまで女性衣服の形態や呼称の議論が盛んに行なわれ、男女類似形態や男女同一呼称について賛否が紛糾しました。
国民政府令「服制條例」
1929年4月「服制條例」で指定された「礼服甲種」のうち、男子礼服と女子礼服は下のとおりです。
一見して、男女の礼服が同形だとわかります。
男女同形ですが、性別化もはかられました。男子にはベスト着用が指定され、丈が踵上2寸と決まりました。女子の袖は肘から手首までと指定されました。
「女公務員制服」も「服制條例」の礼服甲種(第4図・女子「衣」)を指定しました。
この「服制條例」を受け、民国教育部は高級小学や中等以上学校の女子制服を規定しました。この規定では、長袍(ワンピース)と、短衫+スカートのツーピースが指定されました。
普段着も含め、1910年代・1920年代に女性が着用した旗袍は清朝期旗袍よりもスリムになりました。シルエットは男性の長袍と同じ寸胴であったため、長袍とよばれることもありました。この寸胴のシルエットは、よくHラインまたは細めのAラインとよばれています。
1930年代末には礼服甲型に藍色の旗袍が指定されました。
「服制條例」に指定さた旗袍の具体的なスタイル
1929年4月の国民政府令「服制條例」(服制条例)で、旗袍のスタイルは次のように決まりました。
領は直立で、前襟は右を覆い、袖は肘と手首の中間。色は青で、ボタンは6個。
この条例で、旗袍のスタイルは清代スタイルや京派スタイルから脱しました。旗袍の製作には、直線裁断に曲線裁断を加えることとなり、腋窩や腰部に採り入れられました。
1930年代から曲線はさらに重要になり、接袖やダーツの導入とあいまって、旗袍をボディコンシャス化の道へ進ませていきます。
清代の袍服は衣服そのものと人体の顔面を美的基準にしていましたが、なにかと曲線になった民国旗袍は女性の身体ラインに美的基準をおくようになります。
補足
服制の形成と戦後の国服(国民服)見直しに関して、将来的な展望もみすえた記事「“国服”、“汉服”及民国服制」をみつけました。
今後の課題として、ちゃんと読めれば、いずれ要約してみます。
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