1930年代は旗袍の黄金時代でした。
1920年代から1940年代にかけて、近代中国では女性服が最も輝いていました。
1920年代に旗袍の人気が出はじめ、1930年代になっても旗袍は人気が続きました。1930年代に旗袍の人気はピークをむかえました。
そして、旗袍が婦人服の舞台でかけがえのない重要な地位を確立し、中国婦人服の典型となりました。
1930年代の旗袍いろいろ
領
領が高いほどファッショナブルでした。
真夏でも、蝉の羽のように薄い旗袍と領の高い旗袍を合わせる必要がありました。
耳を覆うほどのハイカラー。
その後、再び低領が人気になり、領が低くなるほどなめらかになり、ついに領のない旗袍も登場しました。
袖
袖も交換可能で、人気があり手首よりも長い場合もあれば、人気があり短い場合もあり、露出すると短い場合もありました。
裾丈
旗袍の丈の長さも変わりました。
ある時期に旗袍はすべて接地し、長い旗袍は浮いたものになりました。地面についた旗袍を「お掃除旗袍」とよびました。
別の時期には、膝より上まで短くなったものが人気になりました。
旗袍の成熟:黄金時代の確立
1930年代の初頭、まだ旗袍は1920年代のスタイルをひいていて、臀部を覆わない短い旗袍でした。つまり、下衣にズボンかスカートを穿くツーピースだったのです。
旗袍の裾が地面まで降りはじめたのは1932年ころ。1934年ころには旗袍が地面に擦れてしまうくらい伸びたところにハイヒール・シューズがやってきました。
次のイラストは、この過渡期をうまく説明しています。
同じころ、ワンピースとして旗袍もスリム化がはじまっていました。
1934年ころから、旗袍の形は成熟し、クラシックになりはじめました。その後の旗袍も、30年代中期のシルエットから抜け出すことはありませんでした。
旗袍は世界的に有名になり、中国のドレスといえば旗袍となりました。このとき、中国は本当の「新しさ」、現代的な意味でのファッションをもったのです。
新聞や雑誌は旗袍のコラムを特集し、雑誌ではよく表紙を飾りました。そして、ファッションや美容の絵画は旗袍の人気を促進しました。
また、大手デパート、糸や布の商業、衣料品の商人たちも、ファッションショーやパフォーマンスを開催し、あらゆる有名人に斬新な衣装を着てもらいました。
旗袍は、これらファッション業界で一大潮流となりました。
1930年代上海の旗袍
北京ではなく、全国的なファッション中心地の上海が1930年代の旗袍ファッションを引っぱりました。
当時の上海ではたった3・4ヶ月(半年説もあり)で欧米の最新服が入手でき、上海は全国各地のモデルとなりました。旗袍のほっそりした形は、南方女性の細い体型に対応したため、上海でとても人気が出ました。
1930年代のヨーロッパとアメリカでは服のウエストが細くなり、フェミニンなファッショントレンドを作っていました。これをうけ、旗袍は長くタイトに、スリットも深くなりました。こうして、1930年代の絶妙さ、開放感、活気などの理想的なイメージを満たしていきました。むかしの女子学生のような大袖やストレートのウエストはだんだん消えていきました。
黄金時代のはじまりとともに、洋服の特徴をとりいれた上海スタイルの旗袍が登場しました。そして、北京の文化と上海の文化が対比的に考えられていきました。北京の文化は京派、上海の文化は海派といわれました。
当時、上海は上流階級の有名人たちの楽園でした。彼らの贅沢な生活やファッションの追求は、中国の歴史で前例のないものでした。彼らは泳いだり、ゴルフをしたり、飛んだり、馬に乗ったりすることに熱心で、洋服のフィット感と便利さを賞賛しました。
1930年代旗袍の上海スタイル
1930年代の旗袍のスタイルには2つの大きな特徴がありました。
- 中西合壁…中国と西洋の組み合わせ
- 変化多端…多様な変化
中西合壁の旗袍は、女性衣装7派のなかで「別裁派」とよばれています。
あまり強調されないことですが、脚を見せるという選択肢が旗袍に加わりました。おもに防寒目的で膝下を覆うストッキングやタイツが穿かれるようになりました。同じ目的で外套も着られ始めました。脚の露出はハイヒールのパンプスが好まれました。
学生旗袍
女子学生の制服の場合、旗袍はスリム化しましたが、ボディコンシャス化するまでに至りませんでした。
次の写真は1930年代上海の女子学生たちを写したものです。
上海とはいえ、この時代の学生たちの旗袍の丈はまだまだ長いです。
しかし、スリットは手前一番右の女子学生の場合、膝頭直下まで入っています。学生としては長い気がしますが、この原因が軽い運動を学校でするからか、上海だからか、どちらかは分かりません。
出典元によると、
qipao was gradually modified to highlight curves of women’s chest, waist and hips
ですから「旗袍は変化し、女性の胸・腰・尻の曲線を強調していった」ということです。
別裁派の八字襟旗袍
別裁派は、旗袍と洋服を組み合わせたり、一部を洋服にしたり、屋外でコートを着たりしました。
別裁派の旗袍は、当初、仕立てを西洋のトレンドにしたがわせ、フィット感が増しました。両側のスリットにくわえ、前面と背面も開ける旗袍が登場しました。別の言い方では、左右が開いた前面のダブルブレスト(八字襟)の旗袍が登場したのです。
けっこう亜流なので、古い雑誌やリバイバル本などをみても、あまり出てきません。
八字襟の旗袍は珍しいので、もう一点ご紹介。
次の写真は八字襟旗袍を再現した作品です。
別裁派のアイデアたち
1930年代の旗袍の洋服化は領(えり)や袖に現われました。
フレア襟(フリルカラー)、スリット襟(开衩领)、洋風襟とフレア袖、スリット袖など、伝統服の装飾は変わっていきました。一部の裾もフレアに装飾され、誇張された変形が施されたこともあります。
とくに、脚だけでなく両肩の短い袖にもスリットが入ったスリット袖は先にみました。
あとフレア袖とまでいえるか微妙ですが、太いレースの刺繍をパイピングしてフレア風にみせた袖は次の作品。
これらの旗袍はふつう、映画スターや着婦人たちが脚光を浴びるときに着た社交的なドレスにすぎません。
一般的な旗袍の着方:中西合壁
ほとんどの人は、まだ旗袍と洋服の組み合わせを好みました。
たとえば、旗袍の外に洋風のコート、オーバーコート、フリースセーター、ウールのベストなどを着ましたし、寛大でユニークな装飾にネッカチーフ(スカーフ)を結ぶこともありました。西洋と中国の衣装の組み合わせを「中西合壁」といいます。
1933年に中国公民権保護連盟の総会が行なわれました。バーナード・ショーを撮した写真には、宋慶齢さんが知識人のあいだで一般的だった旗袍にカーディガンベストを着ていた様子が写っています。
冬には、多くの人が旗袍の外側にスキンコートを着ました。襟と袖に毛皮のトリムがついていました。
とにかく、1930年代は中西合壁がきわだった、かなりファッショナブルな時代だったのです。
ダーツと接袖を使った改良旗袍
1930年代の終わりまでに、別の改良旗袍も登場しました。
いわゆる「改良」とは、古い不合理な構造を変えて、旗袍の本体をより適切で実用的なものにすることです。改良された旗袍は、胸ダーツと腰ダーツを使って、裁断方法から構造まで、さらに西洋化しました。それまで旗袍にはダーツが一切ありませんでした。
また、肩の縫い目(肩縫線)と袖が初めて登場しました。それまでの連袖は、衣服としては袖が肩と分かれていなかったので、袖という概念は存在しませんでした。
肩縫線と袖(接袖)が使われたことで、肩と脇下がフィットしました。肩パットをつける旗袍もよく着られました。このようなことから、改良旗袍の肩は「美人肩」といわれました。
このようなことは、女性が封建文化のタブーを開放したことを示しています。女性は自分の姿を見せることを恥じないだけでなく、絶妙な情勢の美しさを誇りに思うようにもなったのです。
ダーツや接袖を使った点で、1930年代は旗袍の洋服化で大切な時期になります。
国服から流行服へ
改良された旗袍の外観は、現代の旗袍の構造の基礎になりました。それ以来、旗袍は旗女から引き継いだ古い形からすっかり脱却し、中国全土にわたるユニークな国服となりました。国服になった段階の旗袍を民族衣装のはじまりとみる人もいれば、改良が完成したとみる人もいたり、見解は分かれています。でも、とにかく1930年代は中国の衣服史を画する時代だったのです。
旗袍は、おもに都会の女性に人気がありました。旗袍のスタイルはいろいろ変わりました。毎年、長さ、太さ、薄さが更新され、注意しなければすぐに時代遅れになりました。ファッショナブルな女性は頭痛の種になりながらも、流行を楽しく追いかけました。
最初の2年間(1930〜1931年)、旗袍の長さは、1920年代とかわらず膝下まで。
袖の長さはタイムリーでしたが、腰はだんだんタイトになり、スリットは深く広がりました。
1930年代、旗袍はかなり人気になっていったので、女子学生たちやサラリーマンたちや家族たちの間ではファッションショーが開かれました。
1934年の旗袍
1934年はいろんな変化が旗袍にありましたが、あまり注目されていません。
1932年から1938年まで旗袍はどんどん流行していき、とくに1934年ころには旗袍の裾が広がりました。
長い旗袍の裾は少なくとも下腿あたり。短い旗袍はさらに短く、膝頭にまで上がってきました。
1930年代の旗袍はレトロチャイナドレスともいわれますから、現代的な先入観で露出が少なかったと思いがちです。でも、上海には西洋からのファッション文化を受けていたのですから、多少の脚の露出もまた、ファッションの一環だったわけです。すでに袖はノースリーブも流行っていましたし。
そういえば「良友画報」には次のような写真が掲載されていました。
これくらいのショートパンツは1930年代前半に穿かれていたのでした。
といっても、旗袍となるとなかなか、見つけにくいです。
写真資料では、裾の長いものが多く、なかなかショート丈のものがありません。次のイラストがわかりやすいでしょうか。
スリットも1934年がピークでヒップに到達し、それから徐々に低くなりました。
スリットが臀部まで上がるとすれば、中のスリップ次第ですが、ハンケツになった可能性も…?!
レトロチャイナおそるべしですが、とにかく広告資料で確認しましょう。
立領の高さは、次第に高くなっていき、口蓋の下、耳へと届くほどになっていきました。首元のチャイナボタンは顔を美しくしました。それからは、領がなくなったり、低い領が復活しました。
領の高さは上の写真でもよくわかります。この写真はあとあとも何かと触れるので、誘惑に負けず、衣装の特徴をあれこれ想像して、覚えてください!
1930年代の旗袍
1930年代には、袖は明らかに細くなってフィット感をもちました。袖の長さは短くなったり長くなったり、ついにノースリーブになり、かなりスリムに見えました。
さきほど見た、楽器演奏をしていた女子たちの旗袍は、4人ともノースリーブでした。
1930年代には輸入された織物も多かったため、旗袍の生地はとても豊かでした。シルクはもちろん、サテン、ツイード、コットンなど、多様な布が旗袍に使われました。
柄
旗袍の柄はどうだったのでしょうか。
明るい色、大きなパターン、自然な立体感など、西洋アートスタイルだったアールデコの影響を受けています。とくに、格子柄の生地やインダンスレンブルーの布で旗袍を作ることが人気でした。
抗日戦争の初めには、国産の天然ホワイトかウールブルーの布(「愛国布」といわれた)が、とてもエレガントで静かな旗袍を作るのに流行しました。
ウールブルーの布は、一般的に藍染めで染められました。防汚性に優れ、色も深く、洗濯すると色鮮やかになります。
無地の旗袍と縞模様の綿布は、とくに知的な女性に人気がありました。上位クラスのドレスのほとんどは、中空で透明な化学繊維かシルク生地をふくむ豪華で生地で作られたものです。
下着
旗袍の内側には、繊細なレースのペチコートや西洋式下着をつけて着飾りました。さきほど、あなたの目を釘付けにしたような女性たちは旗袍のスリットから華麗なレースを見せていたのです。
経済能力の低い女性たちは、偽のレースを旗袍に縫いつけてレースのペチコートを埋めた人たちもいました。
装飾
1930年代の旗袍の装飾はとても洗練されていました。
当時の仕上がりは絶妙で、見えないくらい細いパイピング(线香滚や细香滚)が使われていました。これは作るのに難儀します。
線入れは、ふつう、生地色と旗袍のラインをはっきり対比させます。
チャイナボタンの頭はダイヤモンド型の宝石やエナメルで飾りました。といっても、日常着の旗袍では、チャイナボタン、刺繡、貼りつけ、荡などの複雑な職人技は、以前よりはるかに少なくなっていました。
上海スタイル(海派)の旗袍はアクセサリーも重視しました。フィットしたチャイナドレスの外側に、多くの女性たちが、ネックレス、イヤリング、指輪、時計など、たくさんのジュエリーを身につけました。
お掃除旗袍(扫地旗袍)
1930年代後半になると「お掃除旗袍」(扫地旗袍)というロング丈の旗袍が登場しました。足の甲まで伸びて足首が隠れるほど丈が長いものです。裾で地面を掃除する比喩で使われました。
実際にお掃除旗袍は路上でも着られました。
この写真にもう少し躍動感をつけたくて、カラライズしてみました。
たしかに、装飾がかなり地味です。立領も高くなければ、連袖なので腋窩に少し皺が集まり気味。それでいて、パーマと皮靴は統一的にとりいれられていて、1930年代を感じさせます。
チャン・イーモウ監督の映画『金陵十三钗真实历史』では南京事件を舞台に、お掃除旗袍が出てきます。かなり豪華に旗袍を再現していますが、物語が痛々しくて観るのを途中でリタイヤしました。このブログが映画をコンパクトにまとめています(历史上真实的金陵十三钗,21人试图拯救二十四万人,结局并不美好_腾讯新闻)。
どうも時期柄、お掃除旗袍(扫地旗袍)は抗日戦争と切り離せないのか、いずれ明るい話や写真を見つけたいところです。
結論:1930年代旗袍の典型スタイル
1930年代の旗袍女性の典型的な衣装は、次の4点になりそうです。
- 細いチャイナドレス
- パーマ
- ストッキング
- ハイヒール・シューズ
さきほど誘惑してきた女性の衣装は、<3>のストッキング以外を確認できますね。ストッキングを穿いているかどうかは、イラストでは分かりません。アメリカのデュポン社が女性用ナイロン・ストッキングを販売したのは1930年代末。それまではシルクのストッキングを女性たちは穿いていました。誘惑女性の広告は1930年代のものですから、ストッキングを穿いていた可能性はあります。
昔の教え子が、旗袍といえば何を想像するかとの返事に「世界一のチラリズム衣装」といっていたことを思い出しました。
さて、1940年代になっても、旗袍の黄金時代はつづきましたが、戦争の影響で旗袍の形態に大きな制約がかかりました。
抗日戦争はこう着状態になり、孤島となった上海はいろんな面で不均衡な発展を遂げました。そして、二つのまったく異なる旗袍スタイルが出てきました。
1920年代・1930年代の民国旗袍を支えた上海のアパレルストアには、いくつかの有名店がありました。ドイツ系ユダヤ人が経営した朋街服装店も代表的なストアの一つ。この店の歴史を簡単にまとめた記事もご覧ください。
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