20世紀東アジアの民族衣装に中国モードと西洋モードが大きな影響を与えました。
中国モードから東アジア民族衣装への影響について、ワンピースかツーピースかの違いが大きいです。
すでに2つの記事で、古代中国でもワンピースかツーピースかは時代や地域によっていろいろ。突破口はまだまだ見つかっていません。
この記事では袖と衣裳(ワンピースかツーピース)から古代中華圏の影響を説明しています。
具体的には、古代中国における袖付けと上下の組み合わせ(衣と裳、つまり衣裳)から、東アジア民族衣装の展開をたどります。最後では東アジア民族衣装への黄金比のシンクロ的影響を確認します。
中国系の袖と西洋系の袖の違い
まず、袖の在り方が西洋と中国でどう違っていたのかを確認しましょう。
いちおう、西洋の袖を接袖、中国の袖を連袖といいますが、もちろん、西洋の袖も司法技術が発達した中世まで連袖だったことを覚えておいてください。
さて、次の写真は中華民国期の旗袍を再現させたものです。
肩と身頃(胴体)の区別がありません。
一枚の布をそのまま身体全体に使っています。このような袖は身頃と連なっていることから連袖といいます。
これにたいし、西洋ルーツの袖のうち、いま世界中で最も多く使われているのが接袖と呼ばれる袖です。接袖は身頃と袖と肩と切れています。洋裁用語でセットイン・スリーブといいます。
袖付けという洋裁技術のことで、同じ1枚の布を部分単位に裁断してから縫いつける方法です。
これを中国語で接袖といいます。日本語で普通袖といいますが、何が普通なのか意味不明。近代に日本人が西洋人とであったとき、西洋人を普通だと思った名残です。
東アジア民族衣装の影響類型
ここでは、中国、朝鮮、日本、ベトナムをまとめて東アジアといいます。
当該地域の民族衣装は20世紀前半に大きな変容を遂げ、程度の差こそあれ、いずれもが西洋服へ接近しました。
東アジアの服装が中国から強く影響を受けてきたことは広く指摘されてきました。
現在でも朝鮮の韓服・チョゴリと日本の着物は中国の古代漢服(唐服)の影響下にあり、中国の旗袍とベトナムのアオザイは清代旗袍の影響下にあります。
これらの衣装は中国からの影響のもと、西洋裁縫技術を導入しながらスリム化とボディ・コンシャス化の方向へシンクロして進みました。
中国服飾史にみる上衣下裳と上下連属
古代中国では天地を象徴させたツーピース(上衣下裳)の形式が長期間にわたり整備され、主に礼服として活用されてきました。
また並行して、ワンピース(上下連属)の長衣も利用されました。
深衣、直裾袍・曲裾袍、長衫、旗袍などがこれに属します。
これまでみてきた古代中国ではツーピース(上衣下裳)とワンピース(上下連属)が区別されていました。
前近代の民俗衣装から近代の民族衣装への変容を袖の形態からみると、次のような衣服史・服装史の展開パターンを描くことができます。
袖の発生と上下の組み合わせからみた東アジア民族衣装 : 変貌の方向
図を見ますと、チョゴリと着物が変化の少なかった衣服で、アオザイと旗袍は変化が大きかった衣服でした。
アオザイは上下の組み合わせを変えず、袖付けを変えました。
旗袍は袖付けを変えて連袖から接袖へ転換しました。さらに上下の組み合わせを放棄して、ワンピース(上下連属)に転じました。
世界中の民俗衣装が民族衣装になった変化のなかで、最も変化した衣服が旗袍だといわれる所以です。
旗袍が20世紀をとおして大きく転換した内容と意義はいくつかの記事に述べているので、あわせてご参照ください。
東アジア民族衣装への黄金比のシンクロ的影響
袴のトップが高い位置に昇った事情はよくわからないが,一般のきものにおいて,帯をしめる位置の上昇したことと,関係しあっていることは,たしかである。袴のみについていえば,中国の裙や,朝鮮のチマ(裳)のトップは,乳房のあたりまでくるのであるから,その影響ではないにしても,共通の理由がかくれているかもしれない。女性の帯の位置が高くなりだしたのも,およそ同時期―今世紀に入ってからのことである。(大丸弘「現代和服の変貌Ⅱ―着装理念の構造と変容―」『国立民族学博物館研究報告』千里文化財団、第10巻1号、1985年7月、199頁)
中国の裙(skirt)、朝鮮のチマ(裳)、日本の着物帯のトップが乳房近くまで上昇する点に東アジアの共時性が示されています。
下半身を上昇しているように見せる錯覚効果には西洋の黄金比が応用されています。
民族衣装を説明する難しさ
このように見てきますと、民族衣装というのは論じることの難しいものだということが分かります。
中華文化の周辺地域への定着という観点はよく見落とされます。
そして、今となってはイベント時に着用されるに縮小した観点からだけ論じられる傾向が強まっています。
丹野郁監修『世界の民族衣装の事典』(東京堂出版、2006年)は詳細に民族衣装をまとめたものですが、この精力的な本でさえ根本的な間違いをしています。
中華圏は次の担当です。
丹野郁「総説」、奥村萬亀子「日本」(福山和子「アイヌ」、植木ちか子「沖縄」)、上田一恵「韓国」、相川佳予子「中国」(江川静英「中国少数民族」)、台湾(住田イサミ)、伊豆原月絵「ベトナム」。
このうち、「ロシア」と「中央アジア」は全て加藤定子が書いているのに比べ、東アジアは各執筆者の専門分野のばらつきが目立ちます。本書全体は、催事用正装(イベント用衣装)が取り上げられる地域と、普段着が取り上げられる地域に分かれていて読みにくいです。
確かに民族衣装の文献に多いのがイベント用正装ですが、逆にいえば日常生活とは切り離された衣服を民族衣装と捉える傾向があります。
これには日常着の全面的な洋服化という地球規模の問題が背景にありますが、それを述べても民族衣装研究の根本的な解決にはなりません。
博覧会仮装行列用の民族服というものは、文化の理解という目的からいえば、有害無益なこともありうる。大丸弘「総論 生活観を反映する民族服」≪梅棹忠夫監修・大丸弘責任編集『着る・飾る―民族衣装と装身具のすべて―』日本交通公社出版事業局、1982年、16頁≫
『世界の民族衣装の事典』に見られる叙述角度のズレを確認しましょう。
中国
古代漢服から19世紀・20世紀旗袍にかけて叙述あり。
普段着としても正装としても着用された民国期旗袍も取り上げられています(ただし掲載写真は正装のみ)。
日本
着物(kimono)はアウターウェアになった江戸時代の小袖が源流。
広くいわれるように中世までの小袖は下着でした。
民族衣装として着物は明治和服を無視して20世紀和服(現代和服)をさします。
明治和服は前近代までの小袖などと同じくゆとりをもっていました。他方、現代和服はルーズなものを無視する思想をもっています。
19世紀和服・着物は日本のファッション歴史で取りあげられることが少ないです。ルーズの排除についてはこちらをご覧ください。
普段着の着物をとりあげず、紹介された絵図資料はすべて正装および記念撮影によるものです。
この辞典のように、伝統的でも日常的でもない着物を日本人も外国人も着物だと理解してきました。
- 仕事着は「民俗衣装」として無視(10頁)していますが、仕事着の一つである農家服を着た「農家の女性」の写真は掲載(15頁)。
- アイヌの服に小袖と酷似とありますが(17頁、福山和子)、小袖の漢服との類似性は無視(奥村)。
- 沖縄の項目には平民男女の服装や子守姿の女性の絵図が紹介されています(21頁、植木)。これは奥村のいう民俗衣装となりましょう。
このように日本の衣装ですら叙述角度が崩れています。
民族衣装に限らずファッション史や服飾史を論じるとき、中華圏と西洋圏の共通性と差異性をいつも意識する必要があります。
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