杭稚英(杭穉英/ハン・チィイン)は民国期中国の画家です。1901年~1947年。
商務印書館での見習いや仕事を経て、1922年に自分のスタジオ「稚英画室」を設立、カレンダー・ポスターの道へ。
旗袍を着た女性をモデルに、インダンスレン布会社や煙草会社の広告など、いろんなイラストを描きました。
このページでは杭稚英のバイオグラフィーを簡単にまとめています。
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商務印書館での仕事
杭稚英は、浙江省海寧市の学者の家庭に生まれ、子供の頃から絵を描くのが大好きでした。
幼い頃に父親について商務印書館図書部へ見習いに入門。商務印書館の写真室が研修生を募集していて、杭稚英は商務印書館に入館しました。同期に金梅生、金雪塵らがいます。
商務印書館は、ドイツや日本の画家を雇い、西洋絵画と装飾広告の技法を教えていて、また、専任の人物を雇って中国絵画の基礎と理論も教えていました。
商務印書館での3年間の学習期間が終了し、優秀な成績で商務印書館の営業部門に勤務しました。場所は現在の河南路・福州路の交差点、棋盤街にありました。
当時の商務印書館は、今日の出版社や印刷所に相当します。 また、もう一つの大きな役割が、顧客パッケージングや広告印刷事業でした。当時、パッケージ広告は新規事業であり、顧客の要求はあまり明確ではありませんでした。
杭稚英は、迅速で優れた彩色技術と高い商取引率を示し、管轄当局の注目を集めました。商務印書館は多くの顧客の信頼をえることができたので、杭稚英は18歳で1枚の広告絵画を出版しました。
商業印刷界とスタジオ「稚英画室」での活躍
4年間、彼は勤務してから商業印刷の道へ進みました。
1922年、21歳のときに自分の事業を立ちあげて、スタジオ「稚英画室」を設立しました。
工業界・商業界の顧客は、商業芸術の世界に杭稚英がいることを知っていきました。当時、カレンダー・カードやカレンダー・ポスターなどのサービスを行なうためにスタジオを設立した画家のグループがいましたが、杭稚英が最も輝かしい人物でした。
1930年代に上海の経済や商業が発展したとき、杭稚英は上海の美しさを新しくイメージしていくことになります。カレンダー・ポスターから工業・商業アートのデザインへと事業を拡大し、納期を遅らせることなく、高い評価を得ました。
その頃、金雪塵と李慕白が弟子としてスタジオに入社。稚英をあわせた3人が柱となっていきます。
スタジオの全盛期には、毎年80種以上のカレンダーが発売され、彼らがデザインした工業および商業アートの作品数も上海を支配しました。
華成煙草とのトラブル
美麗ブランド煙草(美麗牌香煙)の商標について、しばしば問題を起しました。商標中のキャラクターを、有名ドラマ「失足恨」のヒロイン呂美玉の静止画から描いたのです。
美麗牌香煙の発売日に、上海のフランス租界当局はそれらを「華成煙草公司」に送り、杭稚英らを召喚しました。呂美玉はフランス租界に住む魏という人物の妻だと判明しました。法廷で、稚英は一般的な声明を発表し、自分がデザインした商標画像は呂美玉の写真とはまったく異なると述べました。
数回にわたる審判の結果、杭稚英は無罪となりました。
最後
1947年9月、杭稚英は家族とともに故郷の杭州へ行きました。
10日後に上海に戻りましたが、過労のために、脳溢血に苦しみはじめ、亡くなりました。
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