今日は清代旗袍の歴史をいろいろと調べていました。
白黒写真を本からスキャンして、色づけのアプリで着色しました。なかなかおしゃれです。
出典は下の本です。
清朝期の「旗袍」
この本は、呼称に気をつけているというか、偏見が強いというか…。
服の形が同じでも、漢族の写真には女装という言葉を付し、満族の写真には旗装を使い、蒙族(モンゴル族)の写真には袍服を使うなど、旗袍という言葉をかなり避けています。
それで、言葉でごまかすケシカラン本だと思ったのですが、ここで冷静になると、旗袍という名前が清朝期になかったのではないかと思いいたりました。でも、以下にご紹介するように、形は旗袍なんですね。
ブログのあちこちに書きまくっていますが、旗袍の形態要素は次の3点または4点です。
- 立領(たてえり)
- 大襟(だいえり)
- スリット
- チャイナボタン
このページで紹介している写真はすべて、この4要素を含んでいるので、すべて旗袍だともいえるわけです、名前じゃなく形のうえでは。
さて、写真の説明を見出しに訳し、私のコメントは衣装とあわせて書いていきます。
清朝期「旗袍」のカラライズ写真
漢族や満族の人たちは、清朝期の旗袍をズボンやスカートに組み合わせて着ていました。
清朝末期の漢族女装
これは、清朝末期の漢族婦人服です。
漢族といっても旗袍を着ています。立領が低いです。
スカートと併用していて、旗袍もスカートもゆったり。纏足をしているようです。
19世紀後半の清朝後期(咸豊帝や同治帝のころ)になると、镶滚の本数は限界にたっしました。上の写真は「18镶」もの線入りがほどこされていることで有名です。
漢族の婦人服は装飾的なスタイルでした。この影響を受けて、清王朝の半ば以降、もともと素朴だった満族衣装にも華やかな線入り縁どり(镶滚)が使われていきました。
袖口に加えて、襟、裾、ズボンにも線入り縁どりがあります。それぞれ幅や形が異なります。
なお、旗袍に使われてきた镶滚という裁縫技術はこちら。
マルチな線入り縁どりの旗装を着た珍妃
次の写真は、光緒帝に最も寵愛されたらしい珍妃です。彼女の着ている旗袍には、マルチな花柄刺繍がほどこされています。
この写真の旗袍は多重の縁飾りをしたものの典型です。
清朝末期の公式婦人服はシンプルでエレガント。袖口、襟ぐり、ズボン、靴にはふんだんに刺繡を施しました。
清末民初期の漢族女性の女装
このような、上にジャケットやコートを着て(はおって)、下にスカートを穿くツーピース設定は、いろんな本で漢族の特徴と述べられています。
でも、それは要注意。
同じ本で、下にズボンというツーピース設定も漢族の特徴に挙げられていることが多いのです。
たとえば、次。
清朝末期の漢族女性服とズボンのマッチング
バリバリの纏足が痛々しいですが、全体でみればスマートな仕上がりともいえます。
パイピング幅が大きい!
腰帯をつけた清朝末期の女性
次の2枚は、旗袍とズボンの間に模様刺繍のある腰帯をつけた女性の写真。
上の写真にも下の写真にも、旗袍のなかから地面にむけて白地の腰帯がぶら下がっています。
下の写真の旗袍には綿が入っているようです。かなりゴワゴワしていて量感がすごい。
足元は纏足。これをキュートとみるか、痛々しいとみるか…。
晩清期の梳旗头ヘアの満族女性
梳旗头は、満族既婚女性のヘアスタイルに多くみられました。お団子のような二把头から発展したものといわれます。
詳しくはこちら。
それでは、最後。
清末民初期に袍服を着るモンゴル族の女性たち
これはモンゴル族の女性たちの写真です。袖が長すぎて手が隠れています。
出典元によると、満族と蒙族(モンゴル族)の服装に違いは少ないとのことです。
たしかに、この写真から服の形にかぎってめだつ違いといえばありません。というか3人の服がバラバラなのでなんとも言いにくいですが。
しかし、満族と蒙族の違いを過小評価して、本全体からは漢族と満族の違いを強めている点が、よくわかりません。満漢の単純二分法で書かれた本なので仕方ないのでしょうが…。
結論
『清代女性服飾文化研究』から、清代旗袍とズボンやスカートの組み合わせを紹介しました。
奇抜なヘアスタイルや纏足の写真もあり、封建時代のゆとりというか、封建時代の厳しさというか、ダブルの印象をうけました。
清朝末期という見出しが多くなりました。中国語の「清末」を訳しただけです。最後の写真だけ「晩清」と題されていたので迷いました。晩清となると、もう少し時間幅が増えるのかと思い、清末とは区別しました。
今回、使った色づけのアプリは、その名のとおり「Colorize Images」。
Colorize Imagesは、白黒、グレースケール、または暗視写真を色付けする自動機械学習ベースのサービスです。
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