民国旗袍をのべた服装史や社会史の文献は、必ずショート・パーマとハイヒール・シューズに言及します。
ただ、これらの文献は、生地の装飾、丈の長さ、スリットの高さを御託のように並べたものばかりで、パターン化する意志がありません。
「それ、研究ちゃうやろ」というレベルが日本や中国のチャイナドレスの歴史になっています。
そして、シルクストッキングは言及すらされません…。
このページでは民国旗袍の女性美基準をきめたストッキングをとりあげます。
旗袍とストッキングの関係について、具体的に次のテーマに分けて書いています。
- ストッキングの歴史
- 旗袍とシルクストッキングの関係
- 世界ファッション歴史からみたストッキング
- 中国へのストッキングの導入と定着
- 旗袍へのシルクストッキングの影響と関係
ストッキングは中国語で「丝袜」。かつてはシルクのストッキングに当てはめた文字ですが、言葉が残っていまでは、シルクもナイロンも含めます。
ストッキングの歴史
ストッキングといっても、20世紀には素材や形態が変わりました。
これを簡単にまとめておきます。
シルクストッキングとナイロンストッキング
アメリカ合衆国のデュポン社がナイロンストッキングを開発した時期は1930年代末。ですから、世界中にナイロンストッキングが普及していったのは1940年代からです。
それまでの主流はシルクストッキングでした。
このページでは、1940年ころまでのストッキングはシルクストッキングと書きます。両方のストッキングを含む場合はストッキングと書きます。
ガーターストッキングとパンティストッキング
臀部と脚部のどちらも覆うストッキングはパンティストッキングといいます。これが開発されたのは1960年代前半のアメリカ合衆国です。
それまでのストッキングは脚部2本が連なっていなくて、ストッキング留めを使いました。よく見かけたのがガーターです。ストッキングとガーターをあわせてガーターストッキングということが多いです。
このページでは1960年代までを述べるので、ガーターストッキングのことだと思っておいてください。
旗袍とシルクストッキングの関係
1940年前後の上海と香港を舞台にした映画『ラスト、コーション』で、タン・ウェイ(湯唯)が旗袍の裾をまくってシルクストッキングを着脱する場面が出てきました。
旗袍とストッキングは意外に切り離せない関係にあります。
中国のインターネットでたまに見かける意見は、旗袍にストッキングを合わせる必要はないけどストッキングを穿いたときに旗袍は最も綺麗になる、というものです。
また、露出が高いコスプレ衣装の旗袍にストッキングを合わせたところで、それならマイクロミニのスカートでええやろ、と私は思います。
つまり、ストッキングを単に穿けばいいだけじゃなく、スリットとストッキングとの関係、ストッキングとハイヒール・シューズとの関係、旗袍とストッキングとの関係を大事にしたいところ。
その点、民国旗袍はおしゃれの参考になると思います。
とくに、露出系チャイナドレスのコスプレにあるあるの黒色ストッキングは旗袍に不向きです。中国では気づきはじめられています。1920年代の女子学生はツーピース版の短い旗袍をよく着ました。黒色のストッキングを併用しました。
でも、これを強調するわけではなく上衣・下衣・ストッキングの三段階で表現していたにすぎません。しかし、黒色ストッキングを臀部まで露出してしまうバランスが悪くなります。
さて、「民国时期,穿旗袍的女人穿丝袜吗?」の記事。
水泳ブームを除いて、生脚・生足がありえなかった時代に、民国旗袍の丈が短くなったり深いスリットが流行ったりしたのは、ストッキングがあったからです。
それでは、世界ファッション歴史からみたストッキングを確認しましょう。そして、中国へのストッキングの導入と定着をみてから、旗袍へのストッキングの影響や関係を考えます。
世界ファッション歴史からみたストッキング
世界ファッション史からみても、シルクストッキングと1930年代末以降のナイロンストッキングは無視できない要素です。
また、「シルエットと曲線美からたどる民国旗袍の美学」にも述べましたように、民国初期の旗袍は過度に誇張されず、シルエットやラインがシンプルで滑らかで寛大でした。旗袍を着た女性たちは「見せる」ことを同時に「覆う」ことでもあるように注意したので、そのジレンマがより魅力的になりました(露と遮のダブル攻勢)。
この点は世界ファッション史でも注目すべきことです。
ファッション史の研究者たちが残念なのは女性が脚を露出したという説明に終始していることです。脚線美への視点がないのです。
美的基準における露と遮のダブル攻勢は次のステップを踏みました。
- 19世紀まで脚の隠蔽ロングスカート、ズボン。ヨーロッパでは19世紀末にブルーマーが登場し、自転車の普及とともに脚が美的基準に。中国では1920年代からか…。
- 1920年代以降シースルー脚の露出と生脚の露出ストッキングが流行し、透け感をもって脚を露出。同時に「ストッキング反対」グループは生脚を露出。
とくに旗袍なら、見せながら隠すというジレンマはインパクトがありました。スリットとストッキングのダブルで「露」と「遮」を表現したわけです。
日本語の表現ではこうなります。露出系コスプレのチャイナドレスではストッキング脚が勝手に見えるのに対し、民国旗袍はストッキング脚がチラッと見える。
中国南部や香港や台湾では、確かに暑いので、素足・生脚で旗袍を着る人がたくさんいます。もちろん、暑い地域の華僑や華人もしかり。
ただ、暑さだけでは説明できません。
1960年代香港を舞台にした映画『2046』で、チャン・ツィイーが演じたバイ・リンが、ガーターストッキングをプレゼントされて喜んだ一場面を思い出してください。
ストッキングが女性の嗜み(たしなみ)や女性の美しさを表わすアイテムだと思う女性でしたら、暑い香港でもストッキングを穿くこともありました。この頃のストッキングも貴重で高かったのでしょう。
中国へのストッキングの導入と定着
民国期、だいたいのストッキングは輸入でした。
ストッキングの人気は、伝統的な厚い布のストッキングを大きく改革していきます。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、外国企業の従業員たちは、より多くのストッキングを着用し、販売店は条約港の外資系店舗に限られていました。
排外的な義和団事件(義和団運動)のとき、武装蜂起した黄河北岸農民たちは、絹のストッキングを穿いた人やハイヒールの靴を履いた人たちを「二毛子」(西洋かぶれ)と呼び、怒りにまかせて「ナイフで切るぞ」と脅すことがありました。「止めろ」と嘆願しても絹のストッキングを引き裂いたとのこと。
その分、清朝末期にある程度はシルクのストッキングが普及していたわけです。
義和団運動が鎮まり、辛亥革命も経た1910年代末から、風向きが変わります。
西洋風のコート、スカート、ドレス、帽子などが広く着用されるようになり、シルクのストッキングも人気になりました。
1910年代末、シルクストッキングは都市流行に乗りました。
当時、上海でもっとも有名だった四大百貨店(前施、永安、新新、大新)には、欧米各地からの商品を専門に販売する「環球百貨」コーナーを設けていました。
このコーナーには、洋風のコート、スーツのスカート、ワンピースなどがありました。
ファッションを追求する都会女性は、これらの新規なファッションに身を包みました。洋装にはシルクストッキングをよく併用しました。だんだん、洋装が制服になっている女子学生たちにも愛用され、流行してきました。
ついに、ストッキングは「夷人の靴下」のレッテルを外しました。
当時の新聞によると、上海の先施百貨店と永安百貨店が販売していたシルクストッキングの時価は2本1組で1元。黒色と白色の2色がありました。当時の上海人の平均月収と比べると、かなり贅沢品でした。
ついストッキングというとベージュ色や肌色を想像しがちですが、黒色ストッキングと白色ストッキングも少し透け感があります。
補説:旗袍の袖やストッキングの地域差
中国南方、香港、台湾、東南アジアなどの地域は暑いので、ストッキングを穿かずに旗袍を着ることが多いです。
ストッキング無しや接袖・ノースリーブ(袖無し)は年齢にも関係します。
年齢が高くなるにつれ、ストッキングを穿く人は増え、接袖・ノースリーブは減ります。
さて、上海のように寒暖差が大きい地域では、寒い時期にストッキングやタイツは欠かせません。
とくにストッキングには透け感があり、旗袍を着るときに重宝されました。
それでは、旗袍へのストッキングの影響や関係をみていきましょう。
旗袍へのシルクストッキングの影響と関係
旗袍へのシルクストッキングの影響
1920年代、シルクストッキングの台頭は、伝統的な下衣へ影響をあたえました。
- ストッキングには脚部を保温する効果があったので、伝統的で大袈裟なズボンが煩わしくなりました。
- ストッキングは脚部のラインを綺麗に整えました。
ストッキングは薄いです。
清代の綿入れをはずして軽薄になった新式の旗袍にストッキングを併用すると、かなり軽やかに見えました。
新しい衣装を着た女子学生たちが膝丈のスカートを穿いて、健やかで美しい脛(すね)を見せたのは、おもにストッキングがあったからです。
まだ、生脚・生足を見せる文化はなかったわけです。もっとも、仕事着を着て農作業をするなどの日常ケースは古代からありましたが、この場合の脚部露出はチラリズムになりません。
清代の袍服のように太いズボンを穿いて、そのうえから軽量の新型旗袍を着ていたとすれば、かなりカッコ悪いです。
ベトナムの民族衣装だったアオザイも同じことで、上のローブ「アオ」も下のズボン「クヮン」も軽量です。
20世紀転換期ころまではどちらも重量でした。グローバル経済下で、あの頃に世界中の布が質感を落としましたね。
旗袍とシルクストッキングの関係
女性美基準になったストッキング
ストッキングは露と遮のあいだにバランスの良い点をみつけました。
初めて、中国女性の脚・足が人々の目前に現れたのです。そのうえ、ストッキングは脚や足の肌を見せながらも遮断する点で、さらに見る人を注目させました。
そのまま透けて見える膝下、スリットが開くと透けて見える膝下、たまに広がるガーターストッキングや生の太腿などが、当時の女性美基準になりました。たまに、スリットや裾から見えるペチコートが応援部隊に。
女子学生のストッキング
学生服とチャイナドレスは民国女子の人気にもなりました。
もちろん、学校では街頭とちがってストッキングの普及はスムーズに進みませんでした。
北洋政府(1912年~1928年)の「取締女生服飾」令はシルクストッキングを禁止しました。肌を見せるからダメだというのが理由です。
このためか、1930年代や1940年代の女子学生の写真では、そもそも旗袍の丈が長くて脚部が見えないものや、旗袍に厚めのストッキング(タイツというべきか)を穿いたものをよく見かけます。
流行のストッキングを穿かないという流行
他方、流行を追わないという流行もありました。流行のストッキングを穿かないという流行です。
広州などの南部はもちろん、天津などの北部でもストッキングを穿かないファッションが流行しました。同時にストッキングも流行でしたが。
たとえば、生脚で踵の高い下駄やヒール靴を履いたり、生足の甲や生脚の脛に、いろんな種類の花を描いて、シルクのストッキングを穿いているように見せかけたり…。
結論:民国旗袍の女性美基準をきめたストッキング
上海のような寒暖差がある地域ではとくに、1920年代から旗袍とシルクストッキングがよく併用されました。
当時の女性美基準は、脚や足にありました。
これらを覆うのがストッキングでした。
ストッキングは見せながらも遮る(さえぎる)効果をうみ、多くの人を魅了しました。「露」と「遮」の美的基準(女性美基準)をうんだわけです。
1920年代、旗袍にシルクストッキングを併用するスタイルは都市部からだんだんと定着しました。女性学生がストッキングの着用を禁止されることがありましたが、1930年代からゆっくり広まっていきました。
1930年代や1940年代の上海を舞台にした映画や1960年代香港を舞台にした映画では、ストッキングの着脱を写すことがよくありました。
最後に、女性美基準と靴について補足して終わります。
女性美基準
1910年代から、アメリカ合衆国でブラジャーが開発・販売されました。この頃のブラジャーは現代のキャミソール風のものでした。
つまり、乳房を立体的に整えるのじゃなく、平坦な布を被せるだけでした。
立体的なブラジャーが実用化された時期は1930年頃のアメリカです。胸部や乳房が女性美基準になったのは、これ以降のことです。
マリリン・モンローのイメージは1950年代アメリカですね。
女性の脚・足やストッキングは、それまでとそれ以降、女性美基準のひとつとして、今なお大きな影響を与えています。
ファッション史家の能沢慧子氏は20世紀の女性ファッションで脚とストッキングが重要だったことを次のように述べています。
20世紀は女性の脚の時代であり、またストッキングの時代だといっても過言ではないだろう。能沢慧子『二十世紀モード―肉体の解放と表出―』講談社選書メチエ、1994年
靴
中国服装史の本では、必ずハイヒール・シューズを取り上げますが、実はローヒール・シューズの段階があったことを述べません。
民国期中国では、1910年代と1920年代にローヒール・シューズが流行りました。1930年代から本格的にハイヒールになった流れです。
このページで触れたウォン・カーウァイ監督映画「2046」の旗袍について書いた記事もあります。あわせてご覧ください。
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