先行研究と新しい課題:旗袍の洋服化 1

定義と研究
この記事は約22分で読めます。

このページでは、ファッション史や衣服史研究のうち、清朝期の旗袍から民国期の旗袍、または現代旗袍へ変貌した点の諸説をまとめ、「旗袍変貌の諸説と限界」を指摘します。

その上で、閉塞的な研究状況を打開する観点を述べています。

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観光業の発展と研究の変化

中国は1992年から全国規模で改革開放や友好観光年の設立などを行ない、国際化を促進してきました。

1970年代末から80年代初めにかけて、中国では外国人観光客が毎年25%増えてきました。1982年10月には「外国人の我が国の旅行の管理に関する規定」が公布され、外国人観光客が自由に立ち入られる場所が緩和されました。翌83年にはWTO(世界観光機関)へ正式に加盟し、観光大国としての展開は既に進められていました。

張広帥「中国観光の発展過程とその特徴に関する一考察」『北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院院生論集』第7号、2011年3月。

服飾文化の観光化

その過程で、とくに女性の民族衣装が注目されました。1990年代まではあちこちの民族衣装を発見し、その特徴を伝える研究が世界中で活発になりました。

その後、地球規模で観光地化がすすみ、服飾文化の観光化という現象がめだち、2000年代になると民族衣装の観光化に言及した研究がはじまりました。

中国にかぎると、たとえば佐藤若菜は、貴州省黔東南苗族侗族自治州内の台江県施洞鎮を調査し、同鎮内の村が、出稼ぎ労働者による人口流出と代替して、近隣村へ苗族民族衣装の委託生産をはじめた事例を示しました。

相互に交流していなかった村同士で、漢民族を介して、結婚の人的交流や刺繍の技術交流が生じたわけです。人口移動と技術移動とを連動させた興味ぶかい論点です。

もちろん、地域産業を委託などというとケシカランという人が出てきそうですが、20世紀初頭日本の足袋産地など、そんなことはどこにでもありましたし、今でもある話です。

佐藤若菜「服飾製作と民族間関係の変貌―エスニック観光のもとで―」『日本文化人類学会第46回研究大会発表要旨集』2012年。

民族からみたとき、観光業とファッションの流行には二つの側面があります。

  • 国内外から訪れる観光客の衣装が現地人の民族化を強める
  • 商売目的から民時衣装を着たため、偽物の衣装が伝統衣装や民族衣装になった

芸術の歴史をふりかえると、民族衣装であればあるほど、それは世界の衣装になるということです。代表的な例は、イギリスの片田舎のたったひとつの村で着られていたスーツが、いまや世界の衣装になっています。

それでは、中国の各民族の服装は、新たな状況下で改善発展さえすれば、末水く世界の服装文化のなかに存在できるでしょう。

このような使命感が中国にあり、近年は旗袍の研究も活発になりました。

旗袍研究の増加

2005年頃から、収集された旗袍の現物資料群や多色印刷された旗袍の画像資料群が豊富に公開されたり刊行されたりしてきました。そのため、旗袍史研究がさかんになりました。

学術雑誌、商業雑誌、学位論文などを網羅的に集めた中国知网データベースによると、中国国内で旗袍にふれた論文やエッセイは4万3千件を超え、題名に旗袍をふくむ文献だけでも2,600件になります。

中国知网(http://www.cnki.net/)、海外版はhttp://gb.oversea.cnki.net/kns55/。数値は海外版を用いました(2015年6月14日現在)
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旗袍史研究の傾向

中国知网データベースでは、文献の題名や概要は無料で閲覧しやすいです。

民国旗袍にかぎって、題名や概要から判断される傾向を確認します。

芸術学・設計芸術学の立場から

  1. 現代服への応用を検証・提案する方向(a)
  2. 衣服形態・材料生地・装飾紋様を詳細に分析する方向(b)

比較的入手しやすい一般書・研究書にもこのような傾向は反映されいます。

(a)は主に衣服デザインの教科書にみられます。(b)は着用衣服の組み合わせにまで言及する場合があります。

(a)の研究は、たとえば、蒋音理「民国旗袍的設計元素分析与当代応用研究」設計芸術学碩士論文、浙江農林大学、2013年。

日本語で読める文献には、張静「中国服の歴史による、現代チャイニーズ風服装の発想と展開」『東京家政大学生活科学研究所研究報告』第20号、1997年6月。

この論文は、商周時代以前のツーピース(上衣下裳形式)から説き起こし、深衣とよばれたワンピース(衣裳連属形式)にいたる古代中国の衣服2形態の成立を述べています。それから、アレンジ・デザインとして衣服製作を行なった結果を記しています。

文化史・社会史の立場から

  1. 当時の映画・画像・ポスター・広告および現物から、女性像・服装像を追う方向(c)
  2. 旗袍の変化に関連させて、女性の地位変化や消費社会の進展を論じる方向(d)

また、いずれの方向でも他方向に言及したり、審美(美的基準、女性美)の変化に言及したりする場合が多いです。

(c)の例として、ポスターと広告をまとめた代表的な本に、白云『中国老旗袍―老照片老広告見証旗袍的演変―』(光明日報出版社、北京、2006年)が挙げられます。

現物を収集した代表的文献として、

  1. 羅麥瑞主編『旗麗時代:伊人、衣事、新風尚―Qipao : Memory、 Modernity and Fashion―』輔仁大学織品服装系所中華服飾文化中心・国立台湾博物館、2013年
  2. 羅麥瑞主編『旗麗時代:她們的故事―Qipaos : and their stories―』輔仁大学織品服装系所中華服飾文化中心、2013年
  3. 長崎歴史文化博物館編『謝黎コレクション チャイナドレスと上海モダン展』2011年

などのカタログが挙げられます。

2は旗袍着用者の回顧録です。

日本語で読める回顧録には、乗松佳代子「現代中国の服飾と社会に関する初歩的考察―中山服と旗袍を一例に―」『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集』第10号、2009年。

ちなみに、一部の服装設計師(デザイナー)は1930年代に縫製業の一環から外れ独立的職業となったが、当初は画家兼業が多く、雑誌『良友』『永安月刊』『美術雑誌』などに旗袍や洋服のデッサンを載せていました。

袁剣俠「民国時期的”服装設計師”」『文芸争鳴』2011年第6期、89~91頁

さっきの(c)と(d)は一緒に論じらられる傾向があります。

多くの研究が、民国期または文革期以降の国民国家観や、旗袍着用者のアイデンティティ・着用心理を考察します。そのうえで、服制、女性地位・女性解放、女性美・身体変貌、消費者心理、都市史、ナショナリズム論などにも広く言及しています。

民国期の女性衣服史でもっとも包括的な研究は、呉昊『都會雲裳:細說中國婦女服飾與身體革命』です。

旗袍に絞った包括的なものには、

  • 謝黎『チャイナドレスをまとう女性たち―旗袍にみる中国の近・現代―』青弓社、2004年
  • 謝黎『チャイナドレスの文化史』青弓社、2011年

があります。

ただし、タイトルどおりチャイナドレスを着た女性たちに注目をしていて、旗袍の形にほとんど触れていないのが残念です。また、清代の袍服に由来するとちらつかせながら、民国旗袍へ系譜的に考えていないのが甘いです。

現代旗袍に関しては、Matthew Chewの論文が要約的な研究にあげられます。この論文は着用理念に注目して、政治的国際会議参加による旗袍の宣伝、映画・TV女優への憧憬、単なる興味本位という3種の着用傾向をまとめています。

Matthew Chew, ‘Contemporary Re-emergence of the Qipao : Political Nationalism, Cultural Production and Popular Consumption of a Traditional Chinese Dress’, The China Quarterly, Volume 189, March 2007, Cambridge Univ Press, pp. 144-161.

経済史の立場から

経済史の立場からは、次のような文献が近代旗袍をとりあげています。

  1. 中国近代紡織史編輯委会編『中国近代紡織史 上巻』中国紡織出版社、1996年。
  2. 中国近代紡織史編輯委会編『中国近代紡織史 下巻』中国紡織出版社、1997年。

この二つの文献は、中国紡織史(中国繊維産業史)のなかに成衣業(縫製業、アパレル産業)をとりあげ、経済・経営面の情報を提供しています。また、旗袍をはじめとする民国期衣服史にも言及しています。

しかし、衣服史と産業史の接続は資料的制約が厳しく、アパレル産業の産業規模が小さいため、紡績業や織物業に比べ微々たる分量が述べられているにすぎません。

形態に注目する立場から:旗袍の洋服化

このような傾向のなかで必ず指摘されるのが、民国旗袍の洋服化(西服化)です。洋服化は立体化をともない、具体的には「曲線適体」・「緊身的方向」にすすみました。

王東霞編『從長袍馬褂到西裝革履』四川人民出版社、2003年、134頁。

「曲線適体」・「緊身的方向」をいいかえると、「後戻りのない構造のスリム化と、ボディコンシャス化の方向」にありました。(以下では「ボディコンシャス化」と「・」を外して使います。)

高橋晴子『近代日本の身装文化―「身体と装い」の文化変貌―』三元社、2005年、246頁。

また、岩本真一『ミシンと衣服の経済史―地球規模経済と家内生産―』は、第4章3節「二重の洋服化―洋服の普及と伝統服の改良―」で、スリム化とボディコンシャス化が旗袍や和服やチマ・チョゴリに同時並行的に起こったことと述べています。

岩本真一『ミシンと衣服の経済史―地球規模経済と家内生産―』思文閣出版、2014年。

なお、民国期には清朝期旗袍をややスリム化して着用することも多く、京派旗袍(北京中心)とよばれました。これに対して、当時の新型旗袍は海派旗袍(上海中心)とよばれました。新型の旗袍は、膝丈の裾や装飾を簡素化したものです。

京派旗袍と海派旗袍の成立は、民国旗袍史の大きな主題です。数多くの文献がとりあげてきました。たとえば、包銘新主編『世界服飾博覧 中国旗袍』(上海文化出版社、1998年、71~77頁)、謝『チャイナドレスの文化史』(52~65頁)です。前者には上海の新形式が北京へ伝わるのは4~5ヶ月後という流行時差に関する興味深い指摘があります(包『中国旗袍』75頁)。

旗袍にみられたスリム化とボディコンシャス化に注目する姿勢は、民国旗袍を扱うさまざまな本や論文に共通しています。

補論:20世紀前半旗袍の世界的な流行

1920年代の旗袍は、いろんな改良衣服のなかで、もっとも世界的に普及した貴重な成功例といわれました(高橋『近代日本の身装文化』245~246頁)。

当時の旗袍は、綿入れの消滅からスリム化がはじまり、ボディコンシャス化ははじまっていなかったので、身体が細くみえて、動きやすもありました。旗袍は日本でも1920年代末に流行しました(高橋『近代日本の身装文化』288頁)。

1920年代に漢族の長着をより活動的にスタイリッシュに仕上げた旗袍が誕生し、30年代にかけて、中国国内で大流行していました。そして、横浜中華街は1923年に関東大震災にあいます。「多くの華僑が故郷の上海や広州に帰ったのを機に、当時、中国の最新モードだった旗袍を日本に持ち帰ったようです」と伊藤さん。それによって日本に広まった可能性もありそうです。
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和服改良の議論が息づまるなか、支那服(中国服)を導入せよという意見も出ました(高橋『近代日本の身装文化』247頁)。また、四季に対応しやすい点や、簡素にも優雅にも製作され着用できる点など、支那服・中華服の臨機応変性を高く評価した本が刊行されました。

  • 井上紅梅『支那女研究香艶録』支那風俗研究会、1921年
  • 早坂義雄『混乱の支那を旅して―満鮮支那の自然と人―』著者兼出版者、1922年
  • 吉川小豊『庭の訓 第1篇―支那服と惣菜料理―』吉田技芸学校出版部、1926年
  • 後藤朝太郎『阿片室―支那綺談―』万里閣書房、1928年

戦前日本におけるチャイナ服(旗袍)の一例。上衣が旗袍と同じ要素。出典:氏家壽子『本邦婦人服装略史』被服協会、1936年、204頁。

女性解放の意味を込めて、チャイナ服が次のように高く評価されたこともありました。旗袍の丈が短いバージョン(上袄)とスカートのツーピースを念頭に、氏家壽子は次のように述べています。

至る所自由な、何等捕はれのない天地が明るく展開されて来た中で婦人の服装のみ何時までも閉されて居る筈は無いのでありました。其れこそがほんとうであつたので御座いませう。洋装をとり入れるとは違つた意味で支那服を著ける婦人もありました。数に於ては極く僅かでありましても前髪を下げて斯うした格好があらわれ後へ何物かを残しましたのを、この歴史の中に書き留めて置きたいと思ふので御座います。

氏家壽子『本邦婦人服装略史』被服協会、1936年、204頁。

井内智子によると、被服協会(陸軍被服協会)は1929年に東京陸軍被服本廠に設立され、被服資源の確保、国産毛織物の普及、軍用被服・民間被服の規格統一を目指す活動を行ないました。(井内智子「昭和初期における被服協会の活動―カーキ色被服普及の試みと挫折―」『社会経済史学』第76巻1号、2010年5月)。

1910年代~40年代の日本人洋画家にとって旗袍は一つの大きな主題でした。

「描かれたチャイナドレス―藤島武二から梅原龍三郎まで―」展覧会が一例です。

日本で旗袍が流行したことで、藤島武二や安井曾太郎らの民族衣装絵画と民族意識とが関係をもちました。この関係にふれた研究に、児島薫「近代化のための女性表象―「モデル」としての身体」という論文があります。

児島薫「近代化のための女性表象―「モデル」としての身体」北原恵編『アジアの女性身体はいかに描かれたか―視覚表象と戦争の記憶―』青弓社、2013年。

ちなみに、台湾では1919年から台湾総督府の田健治郎が同化政策をすすめて漢民族の文化を放棄するよう要求しました。同化政策に対抗する新文化運動がおこり、1930年代に台湾では長衫(旗袍)が流行しました(羅『旗麗時代』73頁)。

乏しいミシン研究

手縫いか機械縫い(ミシン縫い)かの違いに言及した研究は少ないです。

箇条書きで挙げていきます。

  • 民国期に電動ミシンが普及しました。張沙沙「民国旗袍造型研究」設計芸術学碩士論文、広西芸術学院、2013年、5頁。
  • 国産ミシンの実用化が1919年にはじまりました。中国近代紡織史編輯委会編『中国近代紡織史 下巻』174頁。これによって、手工縫製から機械縫製(ミシン縫製)へ転換がはじまりました。
  • 台湾では1930年代以後にミシン縫製が導入され、手縫うは補助作業に回されました。羅麥瑞主編『旗麗時代 : 伊人、衣事、新風尚』44頁・46頁。

旗袍変貌の先行研究にある傾向

共通点

民国期の旗袍が洋服や洋裁技術から影響を受けたことは研究上の共通見解です。形態の基本であるシルエットが清朝期のAラインからHラインへ、さらにはSラインへと変遷した点も共通した認識です。

しかし、旗袍が変貌した点について、細部では一致しません。

相違点

いわゆる寸胴型(Hライン)の旗袍には広い袖口が多く使われ(1920年代)、シルエットに清朝期のAラインが残っているとみる説もあります。

張沙沙「民国旗袍造型研究」設計芸術学碩士論文、広西芸術学院、2013年。

他にも、民国期にパイピング(滾辺)が細くなったと指摘する研究もあります。

陳研・張競瓊・李嚮軍「近代旗袍的造型変革以及裁剪技術」『紡織学報』第33巻 9期、2012年09月、111頁。

それでは、民国旗袍の変化に関する諸説を以下で詳しく見てみます。変化の目まぐるしい立領の高低、袖の長短、丈の長短は除外しています。

先行研究にみる新型旗袍の変化点と特徴

旗袍の変化点と特徴 文献
1 1920年代中期に腰回りが収縮し曲線が突出。袖は少し短く袖口は広く 鄭永福・呂美頤編『近代中国婦女生活』河南人民出版社、1993年、101頁。参照元は呉昊『細説中国婦女服飾与身体革命』276頁。
2 1930年代初期に腰回りと袖口が縮小。30年代中期に腰回りがフィット 黄能馥・陳娟娟編『中国服装史』中国旅游出版社、1995年、386頁。参照元は呉昊『細説中国婦女服飾与身体革命』279頁。
3 1920年代末に欧米からの影響でスリム化とボディコンシャス化 中国近代紡織史編委会編『中国近代紡織史 上巻』166頁
4 1930年代頃に肩縫、接袖が発生 中国近代紡織史編委会編『中国近代紡織史 下巻』175頁
5 民国期に身体露出の開始と旗袍の曲線化、1930年代に身体全体がフィット。1920年代・30年代頃に袖付けの導入 包銘新主編『中国旗袍』62頁、64頁、72頁
6 1920年代末に腰回りのスリム化と身体ラインの明確化 華梅『中国服装史』196~197頁
7 1920年代に(女性自身による)曲線美の認知と身体に沿った裁断開始 華梅『中国服装史』198頁
8 1920年代初頭に欧米衣服から曲線造体化と緊身的方向。1925年に身体全体がフィット 王東霞編『從長袍馬褂到西裝革履』134頁・136頁
9 細く曲線的なシルエットが特徴 謝黎『チャイナドレスをまとう女性たち』121~122頁
10 改良後の新型旗袍にはダーツと繋ぎ目があり立体的 冷芸『裁缝的故事』109~110頁
11 1930年代にシルエットの曲線美 白云『中国老旗袍』123頁
12 1926年はまだ大袖、1934年に全身が曲線化 呉昊『細説中国婦女服飾与身体革命』283~287頁
13 袖口は1928年に広く1930年に締まる 黄土龍『中国服飾史略』202頁
14 1930年代後半以降にダーツの導入、1940年代半ばに接袖の導入 長崎歴史文化博物館編『チャイナドレスと上海モダン展』35頁、52頁
15 1930年代末期に腰ダーツ・胸ダーツ、肩縫線、接袖の導入 羅麥瑞主編『旗麗時代:伊人、衣事、新風尚』72頁
16 1940年代に腋下ダーツ・後腰ダーツ、肩縫線の導入 俞跃「民国时期传统旗袍造型结构研究」38頁、54頁

注 : 「文献」は編著者・書名・頁番号のみにしました。正確な情報は、このページや「旗袍の本:おすすめの図書と入手可能先」に記載しています。

先行研究の確認

旗袍のスリム化とボディコンシャス化は先行研究で共通に認識されていました。上の表から、スリム化とボディコンシャス化の開始を1920年代やその後に設定できます。

なお、清朝期旗袍にみられた防寒用綿入の習慣が民国期に消滅したことは、スリム化とボディコンシャス化の大きな前提条件となります。綿入は和服でも消滅しました(大丸弘「現代和服の変貌」789~790頁)。

大丸弘「現代和服の変貌―その設計と着装技術の方向に関して―」『国立民族学博物館研究報告』第4巻4号、1980年3月。

スリム化とボディコンシャス化の完成時期をみると、最も早いものが中国近代紡織史編委会編『中国近代紡織史 上巻』で、1920年代末と述べています。これを受けて、中国近代紡織史編委会編『中国近代紡織史 下巻』は、西洋裁縫技術導入後の旗袍を説明しています。

また、呉昊は衣服全体が曲線的になった時期を1930年代中頃と指摘しました。この時期は冷芸やと長崎歴史文化博物館編の指摘に近く、中国では製図・裁断・縫製技術が増加した時期でした。羅麥瑞主編、俞跃は時期をもう少しずらして、1930年代末期や1940年代としています。

いずれにせよ、1930年代から1940年代にいたる時期が西洋裁縫技術導入の最も激しかった時期だと規定できそうです。

この時期、西洋技術を用いた一つに針織旗袍(Knit Qipao)も作られた(羅麥瑞主編『旗麗時代:伊人、衣事、新風尚』24頁)。普及はしませんでした。また、西洋裁縫技術の普及につれ京派と海派との区別が消滅していきました。

さっきの表にとりあげた文献のなかで、最も具体的に形態変化を述べた羅麥瑞主編の本を引用します。

1930年代末期、旗袍の裁断方法と衣服構造はさらに西洋化した。西洋の流行であるボディコンシャスな輪郭をめざし、旗袍の裁断構成に、腰ダーツと胸ダーツを使用しはじめ、衣服のウエスト・ラインはさらに強調された。同時に、旗袍には肩縫線と接袖が出現し、伝統的な前後身頃と肩の連なった非裁断構成は、肩袖部分の変更によってボディコンシャス性を増した。

羅麥瑞主編『旗麗時代:伊人、衣事、新風尚』72頁。

旗袍変貌の先行研究の問題点と新しい研究課題

先行研究の特徴(確認)

旗袍変貌の諸説は、「後戻りのない構造のスリム化と、ボディコンシャス化の方向」という高橋晴子の要約に集約していきます(高橋晴子『近代日本の身装文化』246頁・248頁)。

「先行研究にみる新型旗袍の変化点と特徴」にみたように、旗袍に洋裁がどのように採り入れられたかを示す文献は多いです。旗袍の研究は日本の着物研究とは異なり、高い研究水準を示しています。

先行研究の問題点

スリム化の本質的な出発点、すなわち、清朝期に施されていた綿入が民国期に消滅した点を指摘した文献は、みあたりません。

また、旗袍の変化がどのように着用者の行動を規定すしたかについては一切言及していません。また、旗袍を洗濯するとき、立領やチャイナボタンを外した習慣に言及したものもありません。また、そのような立領やボタンがあったことも触れらません。

衣服形態に注目した衣服史研究があってもよいはずですが、形態変化は、生地や紋様の変化にくらべてとても緩慢で、衣服形態だけでは叙述が難しいです。

もっとも、中国衣服史・服飾史研究に形態変化への関心が全くないわけではありません。

たしかに旗袍は、1910年代から40年代にかけて、立領(たてえり、縦領)の高低、袖の長短、丈の上下、スリット(開衩)の深浅は目まぐるしく変化しましたし、この4点を追従した研究はたくさんあります。

中国語でカラーは領子といいます。清朝初期は立領でなく折った丸領でした。立領が多くみられるようになったのは清朝中後期です。

孫彦貞『清代女性服飾文化研究』上海、上海古籍出版社、2008年、33頁。

これらの変化は旧習からの解放にもとづいた西洋風外見の模倣です。

外見の模倣は、立領、袖、丈、スリットにみられた民国期の変化は身体露出と身体隠蔽の往復にあり、すぐにリバイバルされます。

1940年に刊行された雑誌『良友』には、旗袍丈の上下を旋律にみたてて「旗袍的旋律」を奏でていますが、選ばれた写真は旋律に合うものだけです。

『良友』(良友と諸雑誌)良友图书雑誌社、1940年1月、頁不詳。

西服(日本語の洋服)の導入はファッション(流行)で済まされるものではなく、後戻りのない、生活に密着した変貌でした。

また、立領の高低、袖の長短、丈の上下、スリットの深浅は、スリム化とボディコンシャス化を可能にさせた西洋裁縫技術そのものではありません。

シルエットのHライン化と袖のスリム化は軽く触れられることがあります。

旗袍のとりいれた西洋裁縫技術には、曲線裁断、ダーツ(省道)、肩縫、セットイン・スリーブ(接袖)があり、これらはすべて、後戻りのない本質的な変化を生みました。

多くの先行研究が注目した旗袍の洋服化(西服化)は大切な観点です。西洋裁縫技術に含まれる要素を明らかにして、それが外見面だけでなく、機能面や着用者心理にどのような変化と影響をもたらせたかを考える研究が大切だと思います。

民国旗袍への西洋裁縫技術の導入

断片的な研究を集めると、民国旗袍の変貌はひととおり研究を終えています。一言すれば、旗袍は洋服化したという認識です。

民国旗袍における曲線裁断、ダーツ(省道)、肩縫、セットイン・スリーブ(接袖)を直視した研究には、冷芸〔2005〕、張沙沙〔2013〕、俞躍〔2014〕などがあります。

  • 冷芸『裁縫的故事―従小裁縫到大師―』上海書店出版社、上海、2005年。
  • 張沙沙「民国旗袍造型研究」設計芸術学碩士論文、広西芸術学院、2013年。
  • 俞躍「民国時期伝統旗袍造型結構研究」設計芸術学碩士論文、北京服装学院、2014年。

中国裁縫技術(本幇)で作られた衣服を机のうえに置くと平面になります。でも、西洋裁縫技術(紅幇)で製作された衣服は平面になりません。冷芸は中国服の平面性と西洋服の立体性を「中式平面、西式立体」という言葉で表わし、西洋服の立体性を支えた技術を「省道」(ダーツ)と「分割線」(肩縫、袖縫=接袖、背中線)に求めました。

冷『裁縫的故事』109頁。ただし、背中線(後身頃の中央線)は前身頃の中央線とともに清朝期にも確認され、西洋裁縫技術とはいえません。

張沙沙〔2013〕はさらに具体的に記し、1930年代後半から胸省道(旨ダーツ)、腰省道(腰ダーツ)、肩縫、接袖(セットイン・スリーブ)が導入され、身体への密着性がかなり強まったと述べています。

張「民国旗袍造型研究」11頁。また、張はこれらの西洋裁縫技術を促進させた要因にミシンの動力化を指摘しています(同、5頁)。中国の国産ミシンの実用化は1919年(中国近代紡織史編輯委会編『中国近代紡織史 下巻』174頁)。

俞躍〔2014〕は30点ほどの民国旗袍をもとに分解図を描きました。そして、裁断、縫製、装飾、刺繍、アイロンに関する民国期の裁縫技術を全般的に評価しています。他方で、西洋裁縫技術の整理をして、伝統旗袍(民国旗袍)と現代旗袍にみられる大きな違いを肩縫と接袖の有無に求めました。

となると、清朝期から続いていきた連袖旗袍は、民国期のあいだに旗袍の主な特徴ではなくなったと考えられます。鋭い指摘です。

俞「民国時期伝統旗袍造型結構研究」4頁。

ほかにも俞は民国旗袍の興味ぶかい特徴づけをたくさんしています。たとえば、

  • 1930年代の旗袍のうち西洋裁縫技術が利用されていないものにも、すでに西洋服の黄金比率が適用されていた(24~28頁)
  • 民国旗袍がスリム化のもとで平面布と立体人体の矛盾を克服するために、さまざまな縫製技術をうみだしながら、装飾に視点を向かせる工夫も開発した(64頁)
  • 民国期には旗袍の洋服化が進んだが、この洋服化を決定的にしたのは接袖の導入だった(4頁)

などです。

なお、洋服制作には、原型・型紙・平面裁断という流れと人台(トルソー)・人体に被せて裁断する立体裁断の流れがあります。しかし、民国旗袍の洋服化は平面裁断のみで対応されました。それでいて旗袍は洋服以上に立体的だといわれてきました。なぜなら、とても複雑な裁縫技術が開発されたからです。

以上、松平良子・坂井美保・佐々木幸江「中国服(旗袍)について」『武蔵野女子大学紀要』第12巻、1977年、130・131頁。この文献は、旗袍制作技術の工夫や特色を体型分析、採寸、寸法割出法、製図・裁断、縫製に分けて考察した、日本語で読める数少ない論文です。

新しい研究課題

これまで見てきたように、旗袍は、スリム化とボディコンシャス化によって服の形が大きく変わりました。

これは、旗袍の歴史で大きな変化で、一言でいえば旗袍の洋服化です。時代的には民国旗袍と現代旗袍の違いとして考えられます。民国期と現代の本質的な違いは、連袖と接袖の違いです。

このページでは、旗袍の歴史を研究するうえで新しい課題をさがしました。その結果、製作技術の面と動作の面でどのような変化がおこったか、もう少し詳しく考える必要があります。

製作技術の面と動作の面で旗袍はどう変わったのでしょうか。次の記事では、実際の事例から考えています。

また、連袖と接袖の違いを着装実験から述べたページはこちらです。あわせてご覧ください。

定義と研究
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ぱおつ
この記事の著者

旗袍好きの夫婦で運営しています。ぱおつは夫婦の融合キャラ。夫はファッション歴史家、妻はファッションデザイナー。2018年問題で夫の仕事が激減し、空きまくった時間を旗袍ラブと旗袍愛好者ラブに注いでいます。調査と執筆を夫、序言と旗袍提供を妻が担当。

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