袞冕十二章服とは天子がフォーマル・ウェア(礼服)に着ていた衣服のことで、12個のエンブレムが刺繍されています。12個のうちいくつかを除いた服も着ていました。
このページでは中国天子の着用していた袞冕十二章服(こんべん・じゅうにしょう・ふく)から、東アジアの歴史を一体性と力学の二面から考えます。中国は12個だったけど、朝鮮や日本などはどうだったのかという力学です。
冕服にみる東アジアの一体性
冕服とは
冕服とは中国歴代王朝の皇帝(天子)が着用していた礼服のことです。上がジャケット、下がスカートのツーピース。
ジャケットの袖は衣服としては存在しません。ヨーロッパの開発した接袖のはるか以前、世界中の人たちが身頃と区別のない平肩連袖を着ていました。天子といえども、この限界を超えていません。平肩連袖の影響を東アジアの民族衣装で考えた図は「ワンピースの深衣や直裾袍はチャイナドレスの源流か」に置いています。
さて、この礼服には刺繍によって12種類(十二章)の紋様が施されていました。この礼服を詳しくは十二章服といいます。
朝鮮や日本のように朝貢体制によって中国から厚遇されていた諸国の王は、九章服などのように十二章よりも少ない紋様のものを着ることになっていました。
次の表は中国・朝鮮・日本の3地域の章数を時期別にまとめたものです。
表「中朝日の冕服推移想像表」
世紀 | 中華 | 朝鮮 | 倭・日本 | |||
朝廷名か首都名 | 章 | 朝廷名か首都名 | 章 | 朝廷名か首都名 | 章 | |
紀元前~ | いろいろ→漢 | 12 | いろいろ→三国 | ? | ― | ─ |
7 | 隋→唐 | 12 | 新羅 | ? | 飛鳥→藤原 | ─ |
8 | 唐 | 12 | 新羅 | ? | 平城→平安 | 12 |
9 | 唐 | 12 | 新羅 | ? | 平安 | 12 |
10 | 宋 | 12 | 新羅→高麗 | 9 | 平安 | 12 |
11 | 宋 | 12 | 高麗 | 9 | 平安 | 12 |
12 | 宋 | 12 | 高麗 | 9 | 平安&鎌倉 | 12 |
13 | 宋→元 | 12→無 | 高麗 | 9 | 平安&鎌倉 | 12 |
14 | 元→明 | 無→12 | 高麗→李 | 9 | 平安&鎌倉 | 12 |
15 | 明 | 12 | 李 | 9 | 平安&室町 | 12 |
16 | 明 | 12 | 李 | 9 | 平安&室町 | 12 |
17 | 明→清 | 12 | 李 | 9 | 平安&江戸 | 12 |
18 | 清 | 12 | 李 | 9 | 平安&江戸 | 12 |
19 | 清 | 12 | 李 | 9 | 平安&江戸→東京 | 12→無 |
20 | 清→
南京&北京→北京 |
12→無 | 李→併合
→京城&平壌 |
9→無 | 東京 | 無 |
現在 | 北京 | 無 | 京城&平壌 | 無 | 東京 | 無 |
漢代中国の袞冕十二章服
周の時代にまで溯ることができる袞冕十二章は、12個の紋様(エンブレム)が附された天子の礼服です。袞服を着用するときに用いた冠「冕冠」(べんかん)から、中国では袞冕を単に「冕服」とよぶこともあります。
次の図は、漢代中国の袞冕十二章服です。
十二章は以下のとおりです。
- 日(太陽)
- 月
- 龍
- 山
- 雉子(華蟲)
- 火炎
- 虎猿
- 巻龍
- 藻
- 粉米
- 黼(ふ、斧のこと)
- 黻(ふつ)
これらのうち、「衣裳」の衣部分(袞衣)をみましょう。左肩に日、右肩に月、身の前後に、龍・山・雉子・火炎・虎猿、袖に巻龍、合計8点が刺繍されています。下半身の裳部分には、織藻・粉米・黼・黻の4点が刺繍されています。
中国天子の袞冕十二章
中国天子の着用した袞冕の場合、袞衣の左肩近くの袖には北斗七星が、右肩近くの袖には織女星が配置されています。
星座双方はまとめて星辰と呼ばれ、中国ではワンセットで考えられてきました。すなわち、日月だけでなく、北斗七星と織女星もまた両者1組と見なされています。
北斗七星には四方を治める政治が意味されており、国家統治の基となる農事を統べる星という意味も存在します。そして織女星には、機織りを始めとする女性の労働を司る意味があります。
北斗七星と織女星の二星が管轄する農耕部門と機織部門は、古代中国においては皇帝と皇后による祖廟祭祀の中心とされました。
この点は伊勢神宮の祭祀も忠実に踏襲しています。天子親耕、皇后献蚕・神衣奉織といった祭祀に関するピンポイントの表現です。
中国袞冕十二章の時間的変化
中国天子の十二章服にも時代別に違いがあります。日月に対し北斗七星と織女星(つまり星辰)が必ずしも対応しているとは限りません。
漢代と隋・唐代との決定的な違いは、星辰が両袖に分けられているか、背中に混在されているか、という点にあります。南北朝期まで、星辰は両袖に縫われていましたが、隋朝において「肩挑日月、背负星辰」といわれるように背中に配置されました。それ以後、星辰は袖と背中のいずれかに移動を続けてきました。
清朝期袞冕十二章服の形態
紀元前から明朝期までの冕服はゆったりした袍服で、立領、大襟、スリットは満州族の旗袍と同じ要素ですが(チャイナボタンは不明)、寛大な小袖(袖口は小さい)でした。
これに対して清朝期天子の十二章服は旗袍の筒袖要素を採り入れて、ややスマートになった感があります。立領は相変わらずない、または低いです。
次は乾隆帝の礼服。
メトロポリタン美術館がカラー写真で公開しているので、そちらもご紹介します。
満族の天子の衣服は、長袍(袍服とも龍袍とも)の形態を維持させたまま、十二章の紋様を採り入れていたことになります。
奈良時代から江戸時代にいたる袞冕十二章
高田倭男は「養老令」の衣服令にみられる服制に言及し、その代表例として19世紀中期に天皇に即位した孝明天皇の礼服を引いています。
古代日本で袞冕十二章が最初に明記されたのは757年の衣服令です。つまり高田は、朝廷レベルでの服制が奈良時代中期から江戸時代末期まで変化していないという前提に立っています。
中国から日本へ使節が来たとき、天皇が12章服を着ていたら中国はブチ切れたんじゃない?
ご心配なく。中国から日本へ使節が来たとき、12章服じゃなく、たしか9章服を着ていたというのが有名な話です。これを日本語で内天皇といいます。あれ、内弁慶だっけ?
そういや、ロマノフ朝期だっけ? ロシアの皇帝も、中国から使節が来たとき、自称「ツァーリ」をやめて「ただの国王」と名乗ったそうな。
以下、民俗学・民俗史から、高田と同じ孝明天皇の礼服デザインに着目した吉野裕子の論点を紹介しましょう。
江戸時代孝明天皇の袞冕十二章
高田の前提がどれほどの一貫性に裏付けられているかは不明ですが、吉野裕子も高田と同じ前提に立っています。そして、中国天子の礼服と日本天皇の礼服との同一性と差異性に焦点を当て興味深い分析を行なっています。
吉野によると、中国皇帝の礼服と日本天皇のそれとでは北斗七星と織女星とのデザインに大差があります。日本天皇の場合、袞冕十二章に北斗七星と織女星の位置だけは踏襲されていません。左袖の北斗七星が背筋の上部中央へ移動し、織女星は除かれています。
中国天子の衣服「袞衣」
中国天子の衣服である袞衣には、左袖に北斗七星、右袖に織女星が配置されていました。両者がワンセットと見なされた理由は、次の2点が考えられます。
- 北斗七星には四方を治める政治が意味されており、国家統治の基となる農事を統べる星という意味も存在する
- 織女星には機織りを始めとする女性の労働を司る意味がある
北斗七星と織女星の二星が主管する耕と織は、古代中国においては皇帝と皇后による祖廟祭祀の中心とされており、この点は伊勢神宮の祭祀も忠実に踏襲しています。天子親耕、皇后献蚕・神衣奉織といった祭祀に関するピンポイントの表現です。
日本天皇の北斗七星と織女星
ところが、日本の天皇の場合、袞冕十二章には、上記ワンセットだけは踏襲されていません。左袖の北斗七星が背筋の上部中央へ移動し、織女星は除かれています。
このデザインの違いは、政治のあり方や国家における天子・天皇のポジションの違いをも意味する重要なものです。中国の天子の場合、日月星辰の三者の一つ「星辰」として北斗と織女を両袖に付けており、天子親耕・皇后奉織が体現されています。それに対し日本の天皇は、本人が宇宙神、すなわち北極星の化身であるとの認識がなされ、祭祀者であると同時に被祭祀者でもあるという立場を特徴づけているわけです。
天子と天皇の宇宙内ポジション
このデザインの違いは、政治のあり方や国家における天子・天皇のポジションの違いをも意味する重要なものです。
これまでの話をまとめると、中国天子の場合、日月星辰の三者の一つ「星辰」として北斗と織女を両袖に付けており、天子親耕・皇后奉織が体現されていました。それに対し日本天皇には、本人が宇宙神、すなわち北極星の化身であるとの認識も付加されました。日本天皇は、祭祀者であると同時に被祭祀者でもあるという役割を、吉野の言葉では「背負わされた」ことになります。
朝鮮王朝の袞冕九章
朝鮮半島における官服の系譜にも、興味深い事態が確認できます。14世紀末の1392年、李成桂が高麗王朝を滅ぼし朝鮮王朝が建国され、翌年、自ら太祖となり国号を朝鮮国(李氏朝鮮とよく呼ばれる)と決定しました。明朝から朝鮮国王の爵位を得たのは1401年のことです。
以後、日本帝国が朝鮮併合を行なった1910年まで維持されてきた朝鮮王朝は、中国明朝の後継者としての立場を築くことを目標にしてきました。政治体制をはじめ服制においても、太祖が明朝から許諾を受け官服制度を導入しています。朝鮮王朝の場合は九章服ですが、王室内には日月を示す錺物が掲げられていたといわれます。
まとめ:冕服にみる東アジアの一体性
3ヶ国で差異はあるものの、冕服による一体性はスタイルとして同様のものを採用していたという点にあります。それと同時に、このスタイルが19世紀・20世紀にまで引き継がれていたという点も見逃せません。江戸時代に日本は朝貢体制から脱却していましたが、孝明天皇に至るまで江戸時代の天皇も冕服を着用していたのです。
冕服にみる東アジアの力学
3地域の比較
日本の場合は袞冕十二章を種類において踏襲し、一部の紋様配置を変更しました。朝鮮王朝では明朝の服制を古代以来の「十二袞旒冠十二章服」と理解し、自らは「九袞旒冠九章服」として導入していました。また、朝鮮王の場合、両肩の日月二星は金色の刺繍が施された龍に代替されていました。
3地域にみる袞冕の違いは以上です。これまでお話したように、中国では時期によって星辰の位置が移動したり、別の紋様で代替されたりすることもありました。明代に編纂された『明会典』によると、1383(洪武16)年の規定では星辰は両袖に指定されていますが、1405(永乐3)年の規定では背中に指定されています。
いずれにせよ、背中に星辰が配置された史料は明代のものが現存するだけのようです。しかし、その際、特に星座として描かれていることはなく、日本天皇が背中に北斗七星を背負ったデザインとは異なっています。
東アジアの力学
朝鮮は冊封体制を通じて中国の直属的な位置を占めており、朝鮮歴代王朝の皇帝は中国の1ランク下の九章服を着用し続けました。
日本の歴代の天皇は、冊封体制に関しては朝鮮ほどの圧力を受けなかったため(中国からの監視が緩かった)、奈良時代(平城朝)から十二章服を着用していました(中国から使者が来る際に天皇は十二章服を着用しませんでした)。
朝鮮は中国への従属意識が強く、特に李朝は明朝倒壊後には明朝の後裔という忠誠心を示しました。これに対し日本は、中国に包まれながらの独立という発想が奈良時代以降見られるようになります(他の例では漢服にもとづいた着物の重ね着や漢字にもとづいた平仮名の開発など)。
≪憧憶ゆえのコピー≫かつ≪忠実には再現できない根気の無さや常態逸脱の癖≫という日本の性格は、奈良時代に起源を求めることができます。
冕服贈与ランキング(足利義満と豊臣秀吉)
はじめに
袞冕十二章服をつうじて足利義満と豊臣秀吉の世界ランキングを図ってみましょう。
日本史の対外関係で、足利義満は日明貿易の促進と倭寇の取締りの点、豊臣秀吉は、当時の天下範囲における天下統一や大阪城建設(実際は現在の大阪市が建造したが)、そして朝鮮侵略と明朝侵略意図の点がよく挙げられます。
比較の根拠
政治状況はもちろんのこと、時代そのものの異なる二人の人物を国際的地位から比較することは難しいのですが、彼らが存命中だった時代は、いずれも中国で明朝が全国支配をしていた点をヒントにして国際ランキングをつけられます。
明朝にとって日本の政治的実権者をどのように評価したのかが明瞭にわかる事例です。結論からいえば、足利義満の方が明朝からの評価が高いです。
結果
これを明確にさせるのは明朝から謹呈された袞服の「格」です。足利義満の場合、日明貿易の評価に対し「九章冕服」を、壬辰战争(朝鮮出兵)に対し豊臣秀吉は「七旒皮弁冠」と「五章皮弁服」を、それぞれ明朝から謹呈されました(以上、沈从文編著『中国古代服饰研究』上海书店出版社、2002年)。
足利義満はちょうど朝鮮王朝が中華帝国から謹呈されてきた九章服に該当するのに対し、豊臣秀吉は五章服でした。明朝は足利義満を日本国王として認め、朝鮮国王と同じ九章服を贈呈したのでしょう。
まとめ
七章服の存在を確認できていませんが、足利義満と比較して豊臣秀吉は1ランクないしは2ランク下に位置することになります。
それでも、明朝に憧れ攻略まで企てた豊臣秀吉が、その明朝から五章服(ごときで)を謹呈されて喜んでしまったのではなかろうかと、私は推測しています。
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