民国旗袍には古風なパターンと最新ファッションの二つの傾向がありました。いわゆる京派と海派です。ただ、長い前置きに書きますように、民国期チャイナドレスの京派旗袍と海派旗袍は、言葉が先走って現実的ではない区別です。というわけで、「歴史(テーマ別)」のカテゴリーに入れるつもりで書きはじめましたが、どうも歴史にはならいので「定義と研究」に入れました ^^;
旗袍(チャイナドレス)の京派と海派の区別は、西洋化した地域では必ず出てくる単純二分法にもとづいています。でも、いちおう、1930年代の中国文学界で話題になったのと、民国旗袍を特徴づける二分法なので、簡単にとりあげます。二分法にもとづく説明は、主に包銘新主編『世界服飾博覧 中国旗袍』に依拠しました。これをもとに、説得的な諸説を加えています。
京派・海派の言葉の誕生と注意点
京派・海派の言葉の誕生
1930年代の中国文学界で、海派という言葉がはじめて登場しました。海派という言葉は、当時の北京で進歩的な作家だった沈従文が発明したもので、上海で活躍する蘇汶や穆時英らとその文体とを批判するためでした。
その後、京派と海派はそれぞれ、2つの対立する文化を象徴しました。京派は伝統的でオーセンティック(本物)のイメージ。海派はまったく新しいもので、中国と西洋の組み合わせの産物のイメージです。
京派と海派は地域にとらわれていません。京派というのは北京だけではなく、海派が上海と同じでもありません。京派と海派は、芸術と文化の2つのスタイルを表すわけです。
京派・海派の言葉の注意点
いったん派閥風に分かれると、その派閥は後の時代から意味をつけられて、誤解を増幅していきます。次の説明は京派旗袍のものですが、1930年代に登場した京派の言葉があたかも清代にあったかのように説明されています。間違い例としてお読みください。
京派旗袍(京式旗袍)は清朝末期の漢民族女性に人気があり、旗装を改良して腰を細くし、漢民族の要素だった立領と左右のスリットを融合させました。こうして京派旗袍はできあがりました。民国初期に旗袍は西洋化して、平面裁断から立体裁断に変更され、民国旗袍は海派旗袍ともよばれるようになりました。これに対して、清代に改良された旗袍は京派旗袍といいます。https://baike.baidu.com/item/%E4%BA%AC%E6%B4%BE%E6%97%97%E8%A2%8D/18654965
また、いうまでもなく、平面裁断から立体裁断への転換は衣服の西洋化で必ず言われる間違いです。日本でも着物は平面裁断で洋服は立体裁断だとよくいわれますが、西洋で誰がいったい、型紙を使わずに裁断するのでしょう。ドレーピングを除けば、ふつう、世界中の人は平面裁断で立体的な衣服を作っています(笑)。
こういう単純二分法は、いろいろと話をややこしくするので、要注意の発想です。他にもこんな例が…。
京派と海派の旗袍は、ウォン・カーウァイの映画『グランド・マスター』で比較できます。チャン・ツーイーが演じた「宮二」は深い藍色の旗袍を着ていました。立領や袖口と裾には精緻な白色の細かいレースがパイピングに施され、端麗で優雅な容姿をしていました。そして髪は中心で編まれて綺麗でした。背後にいる妓女たちは巻き毛のパーマをしていて強いコントラストを示していました。観る人は「宮二」に目が行くようになっています。宮二のもつ破格の神聖さは、張愛玲が書き記した白薔薇がまさに「床前明月光」だったのと同じ様子でした。https://zi.media/@yidianzixun/post/tDg2JR
この二分法では、京派と海派との区別を明記していないのが曲者ですが、チャン・ツーイーが演じた「宮二」が京派旗袍を着て、海派旗袍は背後の妓女たちとなりそうです。
白いバラのように清楚だったら京派になるというのは、かなりシッタカな気がします。海派が清楚とはいいませんけど、京派が清楚だったのかも微妙です。パイピングが太すぎるのは京派の特徴じゃなくて清代旗袍の特徴な気がします。
そりゃまぁ、1920年代のチャイナ服(ベスト風)だって太いレースのパイピングでしたが、あれは上海でも流行っていたわけで、京派とはいえません。
また、深い藍色の旗袍を京派と見立てても、うーん、1930年代に海派旗袍に流行ったインダンスレン染料の藍色はどう考えたらいいのか…。
定義も概念も決まっていない京派と海派という言葉を無理に使うとぐちゃぐちゃになっちゃいます。自称京派には「来看京派旗袍秀!」のようにド派手なものもありますから。このニュースをみるかぎり、自称京派の女性たちはパイピングの太さや白バラの清楚さよりも、緩めのAラインを重視しているようです。
劉瑜『中国旗袍文化史』のように京派のルーツを清代北京の旗袍に求める説もあってカオスです。が、劉瑜はさらりと1ページで逃げて、海派旗袍の説明に1章を割いています。
さて、海派は革新的で柔軟性があり、商業的な雰囲気が強い西洋美術を吸収した点に特徴がありました。京派は凝縮された簡潔なフォーマルな感じのスタイルでした。
海派のスタイルは「海派服装」という衣服の分野に反映されています。かといって「京派服装」という表現は一般的ではありませんが、このスタイルの衣服は「海派」と同じように存在しました。京派旗袍と海派旗袍には、それなりに独自の個性がありました。といっても、だいたいオチが読めそうで恐縮ですが。オチは目次の「結論」に記しています。
民国期チャイナドレスの京派旗袍と海派旗袍
京派と海派の順序を逆にして話します。
海派旗袍
上海風の文化は1930年代に完成し、海派旗袍もまた、1930年代に黄金時代をむかえました。海派旗袍は1930年代の民国世界を支配しました。1930年代について言及するかぎり、人々は間違いなく海派の美しさを思い浮かべているはずです。
近代上海の開拓がなければ、いいかえれば「中体西用」と「西学東漸」がなければ、旗袍の洋服化はなく、「海派旗袍」のようなものもありませんでした。海派最大の特徴は、伝統的なスタイルと洋服の折衷的なコレクションにありました。
当時、チャイナドレスの外には洋風のコート、オーバーコート、フリースセーターだけでなく、洋装の折襟、V字襟、蓮の葉の襟、蓮の葉の袖、スリット袖などが着られていました。
その後、改良旗袍が登場して、構造はさらに西洋化されました。これまでと違って、胸ダーツ、腰ダーツ、接袖(セットイン・スリーブ)、肩縫線、さらに肩パッドも追加され、完璧な姿を追求しました。古いスタイルの大きな大襟と面倒な装飾はだんだん消えていきました。
チャイナドレスの生地は、あらゆる種類のシルクやサテンから、綿、羊毛布、羅紗まで、繊維の輸入が増え、かなり豊富になりました。
一時期の旗袍は「透、露、痩」が人気の基準になったため、レースと半透明の化学繊維かシルクが使われていました。
また、旗袍は長くて細いシルエットをもっているので、南部女性の薄くて細い体型にはとくに適しました。てすから、旗袍はファッションの主導的役割をはたし、上海灘のあちこちの街路で人気がありました。1920年代と1930年代の海派旗袍は一種の安定したものでした。
けれども、1920年代と1930年代の海派旗袍は気まぐれなファッションでした。裾線の高さは上下に変化し、注意を払わないと時代遅れになってしまいます。このファッションは、それに到達するために本当に「追いつく」必要がありました。
ファッションとは、商業のカンフル剤のようなもので、商業化された大都市の産物です。上海の製品として、海派旗袍は、社会心理学やビジネス利益に密接でした。
開港当初は欧米との交流が増えたため、上海は欧米の流行の影響を強く受けていました。ファッション業界は急速に発展しました。
1930年代に、上海はあらゆるファッショナブルなものの中心になりました。いわば「国立ファッションセンター」といっても過言ではなく、いわゆる「東洋のパリ」としての評判がありました。海派旗袍もまた、あらゆる場所で模倣のモデルになりました。
京派旗袍
少しでもわかりやすくなるように探しているのですが、1930年代ころの京派とされた旗袍の写真が見つかりません…。どうもイメージと言葉が先行したテーマなんですね、京派と海派って。日本語文献でもマジメに区別している方がいらっしゃいましたが、説明が胡散臭かった…。このページもって?!(笑)
とにかく京派旗袍をイメージしてみる
画像がなさすぎるので、参考文献の包銘新主編『世界服飾博覧 中国旗袍』から。
とりあえず、印象としては次のイラストをご覧ください。
とりあえず、このイラストがどの時代をイメージして描いたのかが記されていませんが、京派と海派というテーマの時代設定からして、1920年代から40年代まででしょう。スカート部分の真ん中に折れ線が強調されています。
しかし、次の京派の写真をみると、これが必ずしもスタンダードなわけでもなさそう。
この写真は、1932年に写されたものとのこと。女性らしき人物が清朝末期の袍服(旗袍)を着て、大拉翅という髪形をして花盆底という靴を履いています。清朝倒壊から20年後のことで、この写真や女性が伝統衣装を継続しているかコスプレして遊んでいるかは、判別できません。
清朝末期の旗袍には、壮大に刺繍したものもあったことはよく知られています。出典の包銘新主編『中国旗袍』はこの写真の衣装を京派とは明言していませんが、京派旗袍の説明に使っています。
まぁ、海派旗袍よりは大げさだと、とりあえず、これくらいの認識でいいかと…。包銘新主編『中国旗袍』でも、北京の東安市場にあった「怡生」写真館で1920年代に写された写真をとりあげ、「いうまでもなく京派袍服ですが、海派袍服と大差ありません」と述べています(75頁)。
その写真がこれです。
このツーピース自体、旗袍といいにくいので袍服と逃げているのが包銘新さん上手。まぁ、私なんぞは、旗袍ともいえるチャイナ・ブラウス(ジャケット)とかチャイナ服とかいってますが。
ちなみに、紺色っぽい旗袍を着ている左の女性の上衣。真ん中に折り目がありますが、これは単に折り目か、あるいは切れ目・縫い目かは分かりません。ただ、この真ん中で着脱するわけではありません。彼女の右肩ちかくにある1つのチャイナボタンから、この上衣は大襟をもっていることが分かるからです。右の女性は白の旗袍でしょう、縫い目や柄が分かりません…!
1920年代の上海でこういう旗袍というか上衣はあったようにも思います。
これなんか、どうでしょう。
1927年に謝之光が描いたイラストです。
ベスト部分と袖部分が縫合されていたら、この上衣はチャイナ・ブラウスかチャイナ・ジャケット。立領、大襟、チャイナボタン、スリット(みえませんけど)を備えているので、形は旗袍です。
ふつう、カレンダー・ポスター(広告ポスター)の類は上海から発信されていました。このイラストの想定舞台が上海やその近郊であれば、これは海派旗袍だといえます。「いうまでもなく京派袍服ですが、海派袍服と大差ありません」と述べた『中国旗袍』は、なかなか図星です。
とにかく京派旗袍を特徴づける
とにかく、包銘新さんの『中国旗袍』を追ってみましょう。
民国初期に、北京の女性は上流階級社会の源流となったので、北京の中流階級の構成はある程度、上流社会から影響を受けました。他方、旗袍に全面的なリニューアルを求める内在的な動機がありませんでした。上流階級の社会は、旧清王朝から残された著名な家族や武将、政治家たちによって支配されていて、その人たちのほとんどは旧制度にしたがって旗袍を着ていました。
ですから、海派の革新性とくらべ、京派は保守的でした。京派旗袍は、海派とちがい、ファッションに影響されない伝統的なスタイルを意味します。おそらく、海派の文化は海洋文化といえて、京派の文化は内陸文化といえます。
北京の地理的位置は西洋文明の魅力を助長しませんでした。また、古い北京の官僚たちは、外国の文化を吸収したり容認したりすることを妨げました。
京派旗袍の特徴は、中国と西洋のスタイルの組み合わせの豪華さではなく、ローカルスタイルのシンプルさにありました。
旗袍のスタイルは、大きな胸で、通常は平らで、幅が広く、太っています。生地は主に伝統的なシルクとサテンでできており、比較的重いです。一般人の旗袍は、ほとんどが綿でできていて、単にも袷にもなりました。
プリント生地は海派よりも少なく、色彩は西洋の影響を受けませんでした。それどころか、旗袍の装飾は海派の装飾よりも豊かでした。海派旗袍は女性の身体に重点をおいたので、服ではなく人を表現するためのものでした。京派旗袍の大きなサイズは人体を副次的に考えたので、装飾は絶妙でなければなりませんでした。旗袍は自身の魅力を十分に示していました。
京派旗袍は、海派旗袍ほどファッショナブルではありません。ここでいうファッショナブルは、華美の意味じゃなく、斬新の意味です。
1920年代と1930年代、北京の女性は長いスカートだけでなく、旗袍も着ていました。改良された海派旗袍とちがって、京派のスタイルは豊富ではありませんでした。上海の新しいモデルは、少なくとも4か月か5か月後に北京に登場しましたが、とくに西洋化した大胆なモデルは拒否されました。
それにもかかわらず、北京女性の旗袍は、だんだん上海スタイルの旗袍の影響を受けてていきました。そして、裾線が上下しましたが、時間は上海よりも少し遅れていました。
結論:京派はマダムのようで海派はモダンガールのよう
京派と海派には各自にメリットがありました。
包銘新主編『世界服飾博覧 中国旗袍』の説では、京派がマダムのようで海派がモダンガールのようです。京派は古典的で、海派はロマンチックです。
しかし、歴史的な変化とともに、現代的な特徴を備えた海派がだんだん主流になりました。1930年代、すでに海派旗袍のシルエットは循環状態に入り、今のところ本質的な変化はありません。
このように考えると京派旗袍は衰退し、海派旗袍が定着した感がありますが、もともと他称用語(海派)から端を発した自称用語(京派)だけに、どちらがどうというオチも胡散臭いです。
どちらがどうであれ、旗袍の洋服化は進んだわけです。良かったか悪かったかはともかく、西洋化おそるべしですね。
海派旗袍のシルエットは中国女性の伝統的なイメージと密接に関連していて、このシルエットと切り離すのは難しいのです。それに加えて、あらゆるファッションは所詮、ワンパターンの繰り返し…。
忘れた頃に思い出すわけです。
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