台湾への旗袍の広がり

歴史(テーマ別)
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近代と戦後にわけて台湾への旗袍の広がりを説明しています。

近代は植民地期だった台湾。

漢服、和服、旗袍のどれが普及したでしょうか。

あるいは、想定外の別物だったとか…。国民や民族を日本以上に真摯に考えざるを得なかった台湾の歴史をふりかえります。

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近代台湾への旗袍の広がり

FORMOSA OOLONG ANDBLACK TEA/小草藝術學院 民國百年版 吳姿寶助印

20世紀前半の台湾では、台湾総督府からの圧力と中国大陸への敬意に挟まれた形で服装が変化していきました。

1911年以降、辛亥革命の影響を受けて留学帰りか高学歴の若者を筆頭に、男性は断髪にスーツ、女性の場合も断髪にワンピースとして着る西洋風ドレスや、ジャケットにスカートやズボンというツーピースが流行し、革靴も普及しました。

1920年代になると一般的に男性の大半と子供が西洋風の服装を取り入れ始めました。

旗袍が大陸や香港経由で台湾へ普及しはじめたのは1930年代になってからのことです。こうして、戦時期には西洋風、伝統的ツーピースとともに旗袍は選択肢の一つとなっていきます。

1937年に撮影された盧山婦女談話会の写真。左から3人目が張維楨、4人目が宋美齢、右から2人目が呉貽芳、1番右が高君珊の各女士。

1937年に撮影された盧山婦女談話会の写真。左から3人目が張維楨、4人目が宋美齢、右から2人目が呉貽芳、1番右が高君珊の各女士。 via 羅麥瑞主編『旗麗時代―伊人、衣事、新風尚―Qipao : memory, modernity and fashion』國立臺灣博物館・輔仁大學織品服裝學系、2013年、36頁・37頁。

伝統的ツーピースとは清朝期漢族のツーピース衣裳で中国大陸のみならず台湾でも着用されていました。植民地化以降にも洋服との共通性から普段着として着られ続けられました。

1920年代には洋服の影響から身体に沿った形へ生地が減量し、先述のように1930年代後半以降は上海からの影響で旗袍が増えていきます。

台湾総督府による同化政策が強化されたのは1936年以降のことです。とくに旗袍では特有の布製ボタン(チャイナボタン)を別のボタンへ付け替えるよう強制されました。

しかし、台湾女性は従来通り着用を続けて抵抗し、総督府は1942年頃に諦めました。

Chi-Chien Sewing College の教師と生徒(台北、1935年)。1940年代に女性雑誌が普及し、海外の裁縫技術が多種にわあり導入され、この写真のように西洋ファッションは日常着として台湾女性たちに浸透していきました。そして伝統的な台湾ドレス・日本ドレスは減退しました。

Chi-Chien Sewing College の教師と生徒(台北、1935年)。1940年代に女性雑誌が普及し、海外の裁縫技術が多種にわあり導入され、この写真のように西洋ファッションは日常着として台湾女性たちに浸透していきました。そして伝統的な台湾ドレス・日本ドレスは減退しました。 Courtesy of Mr. Li Fu-li via Claire Roberts, ed., Evolution and revolution: Chinese dress 1700s-1990s, Powerhouse Publishing, 1997, p. 82

和服は式服の一種として用いられる場合があったようで、総じて台湾では、19世紀末からの政治的背景のもとで「中・洋・和」の服装混合現象が生じました。

台湾における「中・洋・和」服は、洋服>旗袍・漢服>和服の順に多く着用されました。

旗袍は漢服同様に日本人から蔑視され、作法の強要が付随する和服は嫌われ、洋服には抗日の意味合いと世界標準への平等性が期待されていたわけです。

以上、台湾に関する記述は、岩本真一『ミシンと衣服の経済史―地球規模経済と家内生産―』オンデマンド版、思文閣出版、2017年、111頁・112頁より。
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戦後台湾への旗袍の広がり

抗日戦争終了後に日本人は台湾を去りましたが、50年間にわたる植民地支配の影響は直ちに解消されたわけではありません。

その上、国民党と共産党による内戦の結果、蒋介石主導の国民党政権が台湾に逃亡してきました。そして、それまで居住していた台湾人と中国本土から新しく到着した人々の文化と行政の違いが衣装に反映されていきます。

1940年頃の姜蘊華(左)。中国瀋陽にて撮影。

1940年頃の姜蘊華(左)。中国瀋陽にて撮影。 Courtesy of 胡季明女士 via 羅麥瑞主編『旗麗時代―伊人、衣事、新風尚―Qipao : memory, modernity and fashion』國立臺灣博物館・輔仁大學織品服裝學系、2013年、48頁。

中国式の衣服は、今日のように急速に変化しませんでした。

そのため、1945年以降の写真は優雅に目立つ中国大陸の女性と、改装された伝統的な服装の台湾島の女性が共存し、日本人と西洋人の衣服も重なっていきます。両女性間の服装の差異は短期間だけ続きました。

(上)1962年に撮影された鄭雪霏氏。米国留学時に搭乗した船にて。 Courtesy of 鄭雪霏女士(下)姜蘊華・胡崢嶸夫妻。台中公園にて撮影。 Courtesy of 胡季明女士。

(上)1962年に撮影された鄭雪霏氏。米国留学時に搭乗した船にて。 Courtesy of 鄭雪霏女士(下)姜蘊華・胡崢嶸夫妻。台中公園にて撮影。 Courtesy of 胡季明女士。 via 羅麥瑞主編『旗麗時代―伊人、衣事、新風尚―Qipao : memory, modernity and fashion』國立臺灣博物館・輔仁大學織品服裝學系、2013年、48頁。

結局のところ、西洋文物の流入と大規模な工業生産の影響下で、台湾人は徐々に西洋化していきました。

当時の衣料は、1960年代から世界中で流行したナイロンのような人工繊維が台湾でも普及し、その意味での国際化が実現しました。それとともに生地柄の色やデザインは西洋的になり、特に幾何学的デザイン、チェック(格子柄)、ストライプ(縞柄)が流行しました。

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ぱおつ
この記事の著者

旗袍好きの夫婦で運営しています。ぱおつは夫婦の融合キャラ。夫はファッション歴史家、妻はファッションデザイナー。2018年問題で夫の仕事が激減し、空きまくった時間を旗袍ラブと旗袍愛好者ラブに注いでいます。調査と執筆を夫、序言と旗袍提供を妻が担当。

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