近代と戦後にわけて台湾への旗袍の広がりを説明しています。
近代は植民地期だった台湾。
漢服、和服、旗袍のどれが普及したでしょうか。
あるいは、想定外の別物だったとか…。国民や民族を日本以上に真摯に考えざるを得なかった台湾の歴史をふりかえります。
近代台湾への旗袍の広がり
20世紀前半の台湾では、台湾総督府からの圧力と中国大陸への敬意に挟まれた形で服装が変化していきました。
1911年以降、辛亥革命の影響を受けて留学帰りか高学歴の若者を筆頭に、男性は断髪にスーツ、女性の場合も断髪にワンピースとして着る西洋風ドレスや、ジャケットにスカートやズボンというツーピースが流行し、革靴も普及しました。
1920年代になると一般的に男性の大半と子供が西洋風の服装を取り入れ始めました。
旗袍が大陸や香港経由で台湾へ普及しはじめたのは1930年代になってからのことです。こうして、戦時期には西洋風、伝統的ツーピースとともに旗袍は選択肢の一つとなっていきます。
伝統的ツーピースとは清朝期漢族のツーピース衣裳で中国大陸のみならず台湾でも着用されていました。植民地化以降にも洋服との共通性から普段着として着られ続けられました。
1920年代には洋服の影響から身体に沿った形へ生地が減量し、先述のように1930年代後半以降は上海からの影響で旗袍が増えていきます。
台湾総督府による同化政策が強化されたのは1936年以降のことです。とくに旗袍では特有の布製ボタン(チャイナボタン)を別のボタンへ付け替えるよう強制されました。
しかし、台湾女性は従来通り着用を続けて抵抗し、総督府は1942年頃に諦めました。
和服は式服の一種として用いられる場合があったようで、総じて台湾では、19世紀末からの政治的背景のもとで「中・洋・和」の服装混合現象が生じました。
台湾における「中・洋・和」服は、洋服>旗袍・漢服>和服の順に多く着用されました。
旗袍は漢服同様に日本人から蔑視され、作法の強要が付随する和服は嫌われ、洋服には抗日の意味合いと世界標準への平等性が期待されていたわけです。
戦後台湾への旗袍の広がり
抗日戦争終了後に日本人は台湾を去りましたが、
その上、国民党と共産党による内戦の結果、蒋介石主導の国民党政権が台湾に逃亡してきました。そして、
中国式の衣服は、今日のように急速に変化しませんでした。
そのため、1945年以降の写真は優雅に目立つ中国大陸の女性と、
結局のところ、
当時の衣料は、
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