苦労話は嫌ですが、この記事はかなり難儀しました。古代中国服装史の本を5冊ほど読み比べ、一番読みやすい記事をベースに翻訳し、4冊の突き合わせ作業を現在も進めています。でも数ヶ月から数年かかる作業ゆえ暫定的に記事をアップした次第です。せめて中国衣服史や中国服装史に関心ある方の役に立てれば幸いです。
このページは裁縫と衣服(モノ)の関係をあつかうので、とくに中国服装史よりも中国衣服史として読んでください。
ワンピースの深衣や直裾袍はチャイナドレス(旗袍)の源流だと、よくいわれます。
はたして、そうでしょうか。
問題の発端は「ワンピースと構成要素みた旗袍の原型の検証(概説編)」にてまとめています。
また、「ラインと構成要素からみた旗袍の原型を検証」では、
- 清代旗袍…Aラインだったことから、源流は曲裾袍(つまり深衣)
- 近代旗袍…Hラインになったことから、源流は直裾袍(つまり深衣じゃない)
この点を明確にしました。
したがって、清代旗袍はAラインだったことから、清代旗袍の源流を、深衣や曲裾袍に求める可能性があるとわかりました。
しかし、深衣、曲裾袍、直裾袍を近代旗袍の源流とみなすことはできないこともわかりました。
このページでは、古代中国の深衣、曲裾袍、直裾袍だけでなく、袍や衫までをとりあげて、清代の袍服・長袍・旗袍との関係を探ります。
裁縫と衣服(モノ)の関係をあつかうので、古代の中国服装史よりも中国衣服史として読んでいただければ幸いです。
そして、とくに旗袍の構成要素にたちかえって、チャイナドレスの源流とは考えにくい点を説明します。イラストや写真資料が少ないので恐縮です。
それでは、まず、ツーピースとワンピースの概念を整理し、ついで、旗袍の形の4要素を確認します。
衣服とは:ツーピースとワンピース
世界的にみても人類の服装はツーピースとワンピースに大別できます。
ツーピースとワンピースの違いをわかりやすい図で示すと次のようになります。私が大学の授業で使ってきたもので、東アジア限定ですが。
ツーピース
1つはツーピースで、中国語では衣裳または上衣下裳。上衣(トップス)が衣で、下衣(ボトムス)が裳です。上衣には、襦、澳、半臂、裲襠などを含みます。
唐代に出てきた胡服もツーピースで、唐王朝の開元・天宝時代によく着られました。同時期に、胡粧(胡妆)、胡騎(胡骑)、胡楽(胡乐)も人気がありました。外国文化(舶来品)の一種として、かなり広域に流行ったようです。
ワンピース
もう1つはワンピースです。中国語では上下連属。古代中国では、上衣と下衣を縫い合わせて、よくワンピースにしていました。古代では深衣が代表的で、襜褕、袍、衫、褂、褙子、直裰、褶子などもありました。
時代が下るにつれ、漢代のころになると、上衣と下衣を縫い合わない、布を裁ちだすだけのワンピースが出てきました。ややこしいのですが、これも袍や衫などとよびます。
深衣と袍服にはワンピースという類似点があります。ただし、春秋戦国時代ころには、大きな違いもありました。
- 深衣は上下に裁断してから、腰まわりで縫い合わせた衣服でした。結果的にワンピースです。
- 袍服は、やや複雑な経緯があります。春秋戦国時代ころには上下に裁断された後に縫合されていたので、この点は深衣と同じです。ただ、袍服には綿入の習慣がありました。漢代ころになると、袍服はもとからワンピースで作られるようになりました。
旗袍は?
いまの旗袍はワンピースで、清代の袍服はツーピースでした。
旗袍は清代に旗人(満族とは限らず漢族が最多)の着ていた袍服です。
中国語の袍や袍服は、ワンピースの服のうち、前身頃をあわせる部分がかなり重なるものをいいます。
ワンピースの服でも重なりが少ないものを衫ということもありますが、清代には袍と衫は性別での区別になっていました。
また、衫には肌着シャツの意味もあるので、袍と衫を厳密に区別するのは、ここではやめておきます。
まず、旗袍の形の4要素を確認します。
旗袍の構成要素
旗袍の形が清朝期からどれほど変化しても、変わらなかった点があります。これを普遍的な要素といいます。
旗袍の構成要素は次の4点。チャイナドレスの特徴です。
最近では、4つ目のチャイナボタンを横ファスナーに代替することが増えています。
また、大襟を装飾にして着脱を後ろファスナーにしたものが増えています。
これらをふまえて、貫頭衣、深衣、袍服の関係をみていきましょう。
深衣のポジションと凄さを知るために、まず貫頭衣から説明します。
ワンピースの種類:貫頭衣(かんとうい)
時代こそ違っても、貫頭衣は万国共通に被った衣服。
世界中の被服は各地の貫頭衣が起源です。
衣服の歴史を調べると、たいてい、どの地域でも貫頭衣が出てきます。
先に私は、組み合わせ(服装)としてツーピースとワンピースに大別しましたが、現物(被服)の形は貫頭衣が起源(源流)です。
たまに前を開いた前方開放衣と共存した、くらいの知識で臨みます。
貫頭衣とは
貫頭衣とは頭から被る衣服です。布を作って、真ん中に穴を開けて被るだけ。
開発されたときはワンピース。これは万国共通とみてOK。
貫頭衣の読み方は「かんとうい」です。貫頭衣の作り方は下図をご覧ください。
ここからは中国にしぼって述べます。
戦国時代以前、脚にはズボンに代わる筒を2本つけていただけでした。次図のように、臀部までを貫頭衣が覆って、あとはレッグ・ウォーマーだけだったという感じです。
上図の1Aは2枚の布を背中だけ縫い合わせたもので、1Bは前も縫い合わせたものです。1Aは前開きの衣服になるので、貫頭衣は1Bです。
古代の織物の幅は地域差が大きいのですが、中国のように48センチだと横に縫い合わせたわけです。
貫頭衣の丈が長ければ、ワンピースとして着られます。貫頭衣はスカート状ですから、人々の下半身は露出していませんでした。
貫頭衣の発展形を想像する
貫頭衣の発展には、次の二つのあり方が考えられます。もちろん、発展のあり方は地域や時代によって異なります。
スカートかズボンとあわせてツーピースで着ることもありました。どの地域でも、これは後の段階。
また、下衣(スカートやズボン)を縫いつけてワンピースにして着ることもありましたが、これも後になってからの話です。そのうえ、貫頭衣に下衣を縫いつけても着にくいので、前が開いている段階があったはずです(上図の1A)。
そうなると、前開きの衣服に貫頭衣という名前を使うのは変なので、前方開放衣(ぜんぽうかいほうい)としておきます。この前方開放衣が深衣へとなるジャンプは古代中国の裁縫技術を考えるとき、とても大切です。
前方開放衣の貫頭衣から身体に巻きつける側方開放衣(そくほうかいほうい)が生み出されていく過程は、まだ解明されていません。でも、一つの手がかりがあって、それが古代中国で着られていた深衣です。
補説:裁縫技術の発生にみる中国とヨーロッパ
古代ヨーロッパは巻衣が基本です。裁縫もへったくれもありません。これに対して古代中国では裁縫技術がかなり高かったのです。それが貫頭衣から深衣への比較からわかることです。
貫頭衣と深衣の間のここで、裁縫技術から中国とヨーロッパを比べてみます。
《ファッションといえばヨーロッパ》という先入観は近代以降のものです。
ヨーロッパ(西洋社会)は、巻衣や貫頭衣を着用していた原始的な段階をアジアその他の地域と共有しています。
古代衣服の素材をみると、中国は麻織物と絹織物、西洋は麻織物と毛織物が中心でした。西洋は毛織物の裁縫に難儀をしていたので、中国のほうが裁縫技術が発展しやすかったのです。
やや極論ですが、古代、中国服飾史が西洋服飾史よりも優位だったのは、中国が絹織物をよく使ったのにたいして、西洋は硬くて分厚い毛織物との戦いに翻弄されたためです。
西洋で、曲線裁断、パネル・ライン、ダーツなど、洋裁を特徴づける様々な技術は、14世紀末に鋼鉄針が開発されて以降のことでした。中国はこれらの技術の多くをもっていなかったので、中世になって断続的に西洋から裁縫技術を逆輸入するようになりました。
ワンピースの種類:深衣(しんい/ローブ)
これまで、古代中国の高い裁縫技術を想像しました。
つづいて、深衣以降に話を進めます。
深衣とは
中国の深衣は、前方開放衣にスカートを縫いつけたワンピースです。一枚の布を上と下に裁断したあとに、その上下を縫いあわせました。
かなり丈が長くなり、古代では珍しいですから、古い文献で深衣といわれました。ロング・ローブかロング・ガウンという感じ。
深衣には白い布を使いました。儒家の学者たちが考案したのか、前世代の伝統的な概念を継承するためか、先祖の法則を尊重するためか、とにかく上と下を「繋げる」(つなげる)ことが大切でした。
深衣は、商代・周代や春秋時代・戦国時代に登場し、戦国時代から西漢時代にかけて人気でした。
男女をとわず年齢もとわず着られました。宮廷では、深衣は朝服につぐ地位にありました。庶民は「幸運の服」として着ていたそうです。
深衣の構造
深衣の作りはかなりマニアック。
深衣のスカート部分は裾が広がっていました。やや曲線になっていたという説もあります。スカート部分以外も縫製が細かく、服の長さ、袖の高さ、布幅のステッチ、襟のカットに特定の作業が必要でした。
下衣のスカートは6枚のパネルから成り立っていました。各パネルはそれぞれ斜めに2枚へカットしたものです。1年は12ヶ月なので合計12枚のパーツからスカートは作られていたわけです。
カットされた部分は、一方の端が広く、もう一方の端が狭くなっていました。そして、上衣の衽(おくみ)の右後ろへ、斜めにカットされたピースを使って縫い合わせて台形スカートを作ります。腰の近くで上衣と縫い合わせます。こうしてワンピースにしていました。
この裁断方法は「续衽鈎边」(鈎衽/かぎおくみ)といいました。
深衣のスカートの広がり
ここでは、ふつう下着というショーツやブリーフなどを内衣として話をすすめます。読みすごしやすい下衣(スカートやズボン)と下着(内衣)を区別するためです。
深衣のスカートの裾が広がっていた理由や曲線だった理由は、内衣を意識していたからです。
戦国時代以前の人々は、まともな内衣をもっておらず、貫頭衣もワンピース・スカートのままで、ズボンを縫合していませんでした。貫頭衣でみたようなレッグ・ウォーマーくらいしかありませんでした。
といっても、貫頭衣の下方のスカート部分によって下半身は露出しませんでした。
上下を一体化させた深衣が登場したとき、最初の技術的な壁は、スカートの裾をどうするかでした。スカートに広がりがなければ、かなり窮屈になります。スカートに比べてズボンのほうが裁縫技術は高いので、貫頭衣や前方開放衣に接続された下衣は、はじめはスカートだったと考えてOKです。
それで、深衣のスカート両側にスリットを入れると楽なのですが、下半身の露出度が高まってしまいます。他方、スリットを入れないと歩行に影響が出ます。
ワンピースの種類:曲裾袍(きょくきほう/ローブ)
この矛盾を解決したのが、スカートの裾を広げる方法でした。
スカート部分の裾が広がっているワンピースを深衣ということもあれば、曲裾袍ということもあります。具体的な裁断方法を説明している古代の書籍類で、用語が一致していません。深衣と曲裾袍をわける学者もいれば、わけない学者もいます。
この写真は、2種類の「袍服」を示しています。これを同種とみるか異種とみるかも識者によってバラバラ。
スカート部分の広がる深衣・曲裾袍のグループ(上)と、スカート部分の垂れさがる襜褕・直裾袍・袍のグループです(下)。
上のグループの右腰に出た部分を背中に巻きつけて締めれば、裾が広がるというわけです。下のグループの場合は、巻きつける部分が長方形になっているので、裾に向けて広がるのではなく、足首までピッタリ垂直になります。
ワンピースの種類:襜褕・直裾袍(ちょくきほう/ローブ)
襜褕や直裾袍や袍も、書籍や識者の間でバラバラに理解されていますが、深衣・曲裾袍よりも後に開発されたものと私は考えます。
東漢の時代に内衣が発展した説をふまえると、外衣である深衣や曲裾袍の股間部分にゆとりをもたせる必要がなくなるからです。ですから、深衣や曲裾袍のようなゆったりめのAラインの衣服が広まったあとで、襜褕や直裾袍や袍のようなHライン風の衣服が開発されたと私は考えています。
ワンピースの種類:袍(ぱお/ほう/ローブ)
戦国時代の開発
戦国時代に開発された袍も上着と下着を組み合わせた長い服です。
寒さを防ぐために古い綿を入れた中間層がありました。中間層が新しい綿で満たされていることもありました。
屋外で着る場合はオーバーコートを追加する必要があり、直接は袍を屋外で着用することはしませんでした。
周王朝では、袍はカジュアルウェアであって礼服ではありませんでした。軍隊も袍を着ました。
戦国時代の後
戦国時代がおわり、一般的に袍は、交領(クロスカラー)を採用し、2枚の襟を重ねて交差させたものでした。その袖身は比較的幅広で弧を描いていて、袖口は収束して動きやすくなっています。服の長さは膝下です。
初期の袍には多くの形とシステムがあり、中間層が違いました。ふつうの家では主に悪い綿を使いました。裕福で高貴な家では新しい綿を使いました。貧しい人々は綿を買う余裕がなかったので、彼らは冬に「緼袍」という麻を入れた袍を冬服として着ていました。
「綈袍」も一種の冬服でした。「綈」は厚手の布の一種で、組織は緊密になっていて、質地は厚いです。主に一般の人々の衣類として使われました。
漢代における袍服の定着
漢代ころ、ワンピースの袍服は上下ツーピースの衣装と並行して、2種類の服装システムの一つに定着しました。袍服に対する上下ツーピースの代表的な服は「胡服」で、短い上衣にズボンを合わせたセットでした。
漢王朝以降、袍はふつうの衣服の一つとして使われてきました。家にいるときは、よく一着で着ました。
一着で耐久性はどうだったでしょうか。
衣服の堅牢性を高める工夫がなされました。領や袖その他の部位は特別にパイピングで装飾されました。
時代の発展とともに、袍のスタイルは絶えず変化し、装飾はより絶妙になっていきます。東漢時代には、結婚して花嫁の一種のドレスになり、自尊心や劣等感に関係なく着ることができました。
袍は礼服に変わりました。朝廷では、階級を示すために色や装飾に規定が設けられました。
このように、漢代に袍は下着から上着に変わりましたが、「襜褕」も流行っていました。袍の防寒用の中間層は邪魔でしたが、襜褕はシンプルだったからです。しかし、時間とともに、中間綿の有無にかかわらず、総称して「袍」といわれるようになり、襜褕の言葉は使われなくなりました。
袍も襜褕も次のような特徴をもっていたので、どちらも袍だと考えられるようになったわけです。
- 交領(クロスカラー)
- 2枚の襟を交差
- 袖身は幅広で弧
- 袖口は収束
袍が襜褕を含んだ意味をもってから、袍の使用範囲はますます広がりました。何百人もの役人の宮廷服としても使われ、唐、宋、元、明、清の王朝が引き継ぎました。男性庶民も家で日常着に着ました。
宮廷服(朝廷服)の袍は次のような特徴をもっていました。
- 交領(クロスカラー)
- 2枚の襟を交差
- 袖身は幅広で弧
- 袖口は収束
- 垂直な裾(直裾)
- 広い服幅(衣身宽博)
- 長い着丈(衣长至附)
これらのうち、<1>が立領、<2>が大襟と考えられ、旗袍の基本4要素にふくまれます。でも、スリットの存在がわからないのと、交差した襟をどう留めていたかがわからないので、袍がのちの旗袍や長袍や長衫の源流とは考えにくいです。つまり、スリットとチャイナボタンの存在がわからないのです。
なお、袍の袖身は幅広で弧だった点ですが、円弧上になっていたのは肘部分です(臂肘处形成圆弧状)。いわゆる「袂」(たもと)や「牛胡」(ジャケット)、「张袂成荫」ともいいます。
ワンピースの種類:衫(さん/シャツ)
東漢・魏晋時代まで
長着には衫(シャツ)もあります。衫は、裏地なしの単(ひとえ)だけを使った、軽いレノ(紗羅)で作られた大袖のワンピースです。一般的に、襟から真っ直ぐ下に向かって一組の前立てになります。
2つの前立てはベルトで接続されます。ベルトストラップを使わずに前立てを開くこともできました。袖は寛大で、袍と違って袖口部分は狭くなっていません。
衫は対襟を採用しているので、着脱が便利で夏服に向いていました。
南北朝時代
南北朝時代には、ツーピースの胡服が影響して、衫を着る庶民の男女がだんだんと減り、唐・宋時代に再び人気を博しました。
この頃までの衫はすべて単(ひとえ)だったので、「単衫」と呼ばれていました。
唐・宋時代
唐・宋時代に着用者が衫をよく着るようになったため、裏地がつけられるようになり、単層から二層へ、つまり単(ひとえ)から袷(あわせ)に変わりました。それに応じて着用時間が延長され、スタイルも改善されました。
衫はもともと対襟で、領は真っ直ぐでした。衫の新しいスタイルは、大きな円形の領(円領)になり大襟も出現しました。つまり、ローブに近いスタイルになったのです。
そして、もともと衫は男性用でしたが、後唐・五代以降は女性用にもよく使われるようになりました。
明代
明代になると、衫は単に女性の礼服に使われ、お祭り、結婚式、叔父や叔母との出会い儀式などで一般的に着用されました。
結論
袍が漢代に一種の普段着として定着しました。パイピングをもっていた点に裁縫技術の早熟さを感じます。
ただ、漢代の袍には立領と大襟があったものの、スリットとチャイナボタンの存在がわかりません。チャイナボタンでなければ、衣服を帯で留めていたのでしょうか。この点は調査を続けなければなりません。
また、衫が唐代に立領、またはその原型となる円領になり、大襟にもなった点も覚えておきたいところ。ただし、スリットとチャイナボタンの存在がわからないのは、袍と同じです。
以上の考察から、袍や衫という衣服はもちろん、深衣、曲裾袍、直裾袍などのワンピースも、旗袍の構成要素をふくんでいたとは考えられず、これらに旗袍の源流を求めることはできません。
今後の課題を箇条書きで再掲しておきます。
- 漢代の袍と唐代の衫に、スリットとチャイナボタンは存在したか。
- 漢代の袍と唐代の衫の身頃の留め方はどうだったか。(ボタンか帯か…)
- いつ立領は付くようになったか。(明代か清代か…)
理屈だけの長文を最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
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