清代旗袍と民国旗袍の同異を簡潔にまとめます。
おおまかには、軽量化とスリム化が違いの軸です。
清代の袍服と民国期の旗袍は、袍という漢字と4つの構成要素で継続していますが、違う点もあります。
このページでは、清代の男性用袍服と女性用袍服を簡単に紹介し、民国旗袍が女性用袍服とどう違ったかを説明しています。
中国服装史近現代の旗袍バージョンとしてもお読みいただけます。
清代袍服の男女差
清代旗人の衣装は旗装といい、その女性家族の旗女の衣装と違いはほとんどありませんでした。清代の旗人と旗女は袍服をよく着ましたが、この衣服に男女差は小さかったわけです。
旗人・旗女の袍服は、いずれも、旗袍の4要素のうち立領(たてえり)を除いた3点を採用していました。大襟、チャイナボタン、スリットです。
あえて男女間の違いをいえば、女性の方が装飾が派手でした。とくに身頃や裾の刺繍、それに領(えり)、襟(えり)、袖、裾のパイピング装飾の2点で、女性のほうが華美でした。
しかし、衣服の形態に違いはありません。
それでは、清代の旗人と旗女に属する人たちと属さない人たちの衣装は、どう違ったか。この点は別の記事にとりあげたので、そちらをご覧ください。
清代袍服と民国旗袍の同異
清代の袍服には装飾で身分や階級が区別されていました。
民国期になると、袍服に身分差がなくなり、いろんな女性が着るようになりました。
1929年の服制で、男性の衣装は清代の袍服と同じ形態を指示されました。これを長衫といいました。
女性の衣装も清代と同じ形態をした袍服を指示されましたが、男性よりも形態や装飾がめまぐるしく変わっていきました。
そこで、清代旗袍と民国旗袍の同異が出てきます。
同じ点
同じ点は、清末に形成された旗袍の構成要素です。
- 立領
- 大襟
- チャイナボタン
- スリット
の4点です。
民国旗袍は経典旗袍と改良旗袍の二つの段階を経ました。
- 第1段階(経典旗袍)では、伝統的な直線裁断と平面切断にもとづいていて、綿入れの習慣をやめてHライン状にスリムになりました。
- 第2段階(改良旗袍)では、洋裁技術、とくに装袖(接袖)、ダーツ(省道)、肩パッド、ジッパーなどをとりいれて、ボディコンシャスになりました。
経典旗袍から改良旗袍へと旗袍が進んだ道は、西洋裁縫技術の導入による旗袍の洋服化でした。
違う点
清王朝の旗女の袍(袍服)と中華民国の新型旗袍には、主に4つの違いがありました。
旗袍の言葉を「暫定的な考え方」として、旗袍の広義と狭義を次の記事にまとめています。
以下では、旗袍を広義に使います。清代旗袍と民国旗袍の言葉で使い分けます。
曲線美の登場:清代袍服と民国旗袍の違い1
旗女の袍は身体を露出させませんでした。とくに清代後期に袍の幅は広くまっすぐになりました。
古代から中国の服装は、清代の旗人の袍もふくめ、人間性よりも紋様を重視していました。そのため、人体の曲線(シルエット)や衣服の形態を強調せずに、服のパターンを強調してきたのです。
どこでもそうですが、中国でも人目を引く女性を認めておらず、人体に対しても非常に微妙な態度をとりました。
古代の美女は、顔が重要で、撫肩、平らな胸、細い腰、狭い臀部、そして骨格が薄い美人として、衣服の下に押しつけられていたわけです。かつての中央平原の衣装と比べると、旗人の袍は体に合っていますが、旗女の体型を細長くするだけで、身体を隠していました。
民国旗袍は西洋ヒューマニズムの影響をうけました。
1920年代にHラインが増えて、旗袍の洋服化がはじまります。
袍服に綿を詰める習慣がなくなり、また、Hライン化したことで、スリムになりました。
1930年代になると曲線美を追求するようになります。つまり、ボディコンシャスに向かいました。この頃には旗袍という言葉が定着していました。
スリム化とボディコンシャス化は「旗袍の洋服化」にまとめているので、詳しくはそちらをご覧ください。
西洋服飾がシルエットを忠実に表現していて、極端な方法を用いることがよくあります。たとえば、接袖やダーツです。西洋服飾で重要なのは衣服ではなく人体です。民国旗袍は、人体のライン(シルエット)を描きました。
脚部の露出:清代旗袍と民国旗袍の違い2
脚部の露出といっても、生脚・生足の露出じゃありません。
清代、旗女の袍服は着用者の身体を見せませんでした。袍服は裾丈が長く、また長袖だったうえ、旗女はズボンを穿いていたからです。つまり、袍服の外へ出ているのは顔面と手先だけでした。
もちろん、旗女の袍服では、刺繍されたズボンが裾下やスリットから見えることはありました。
1920年代、袍服に併用するズボンやスカートが短くなって、脚部を見せるようになりました。もともとの旗女(一部の漢族込み)や満女はズボンを併用しなくなり、旗女じゃない一部の漢女はスカートを併用しなくなりました。
民国期、とくに1930年代になって袍服(旗袍)はズボンを併用することが減り、とうとうワンピースになりました。
目の前に脚を見せることとズボンを見せることには、女性のとらえ方に変化があったと考えられます。
民国期、足・脚を出すといってもだいたいはストッキングを穿きました。
ストッキングの素材は、おもに1930年代までがシルク、1940年代からはナイロンになりました。アメリカのデュポン社がナイロン製のストッキングを世界で初めて製品化したのは1939年のことです。
民国旗袍のスリットは、たまに、とても高く(深く)開かれました。
1934年、スリットはほぼ腰の下にまで上がり、腰部は狭く裁断されました。歩けば、隠れていた脚がかすかに見え、人々に活気と軽さを感じさせました。いわゆるチャイナドレス(旗袍)におけるチラリズムの発生です。
女性の行動制約がかなり緩和され、身体的発達や精神的発達のための文化的環境が改善されました。
当時、世界的にみて、女性の美的基準は脚にありました。
すでに1930年代のアメリカでは立体的なブラジャーが登場していましたが、その後に多くの国が第二次世界大戦を経験するので、胸の美的基準はなかなか定着しません。胸のスターだったマリリン・モンローも1950年代に人気が出たくらい遅いです。
清代の目、民国期の脚、1950年代以降の胸と、女性美の基準は変わっていきました。この変化は「シルエットと曲線美からたどる民国旗袍の美学」にまとめているので、ご参照ください。
原材料の変化:清代旗袍と民国旗袍の違い3
清代の袍服に使われていた生地はかなり重厚でしたが、民国期になり生地が薄くなりました。清代には刺繍花やアクセサリーがたくさんありましたが、これもアッサリしていきます。
まず、生地には刺繍した花の代わりに捺染(プリント)した花が増えました。ついで、頭にあった両把頭は、ショートヘアのパーマになり、頭が軽量化しました。
生地と装飾にしぼって、もう少しくわしくまとめます。
旗女の袍服の素材は重厚でした。多くは刺繍の花柄で装飾は華美でした。
民国旗袍の素材は軽くなり、プリントの花柄が多く装飾は簡潔になりました。
清代末期に装飾的な細部を過度に追求したことは、当時の支配者層が病的といえる観賞水準に達していたことを物語ります。ドラゴン、ライオン、ユニコーン、フェニックス、鶴、鳥、梅、蘭、竹、菊、そして何百もの花、八宝、八仙人、そして福禄寿喜などが常用され、すべてが明るく複雑な色をしていて、高いコントラストや細くて複雑なパターンをしていました。
さらに、旗女の袍はレースをたくさん使いましたが、それは手の届かないものでした。
レースの本来の機能は、衣服の堅牢性と耐久性を高めることです。ですから、レースが使われる部位は、ネックライン(領口)、袖、前立て(衣襟)、裾などの傷つきやすいところに装飾されることが多かったのですが、しだいに装飾になっていきました。
清代に、レースの装飾的な機能は実用的な機能をはるかに凌ぎました。旗女の袍は多くのパイピングで美しく飾られ、咸豊帝と同治帝の治世時に華美さがピークに達しました。旗女の袍は全体にレースのパイピングが装飾され、元の素材がほとんど見えないものもありました。
清朝末期に外国織物が中国市場に流入しだし、民国期に勢いを増しました。
1930年代から1940年代にかけて、外国の捺染機や染色機がたくさんの人を魅了しました。刺繍や花柄の絹織物はだんだん市場を失い、プリントの綿織物、絹織物、麻織物が広く使われるようになりました。
生地の紋様はヨーロッパの写生技法や光影処理方法がよく使われ、色彩が統一的になり調和されていきました。たとえば、チェック柄の生地や幾何学的な生地が中国人に人気がでました。
民国旗袍はシンプルで、領は短く、袍の丈も袖も短く、線入り縁どり(複雑なパイピング/镶滚)が減りました。民国旗袍の簡素なスタイルは、留学中の女子学生たちも持ち込み、シルエットの改善や镶滚装飾の省略に拍車をかけました。
着用者の拡大:清代旗袍と民国旗袍の違い4
民国期になると個人属性を問わずいろんな女性が袍服を着ました。
清代では旗人の女性家族(旗女)が着用していました。旗人・旗女の組織的中心は満族でしたが、人数的には漢族が一番多く、また、少数ですがモンゴル族もいました。
旗女の袍服は明確な階層と多くのシステムをもっていたのに対し、民国旗袍は平民化に進みました。階層アイデンティティはだんだん薄れ、消費や美しさの個人的な基準が出てきました。
清朝の衣服には、前代にくらべ衣服にかんする規制や規則が多く、公式の王冠の衣服の色や質感、胸の当て飾り、ビーズの等級、翎子(リンツ)の目の数、冠りの素材には厳しい違いがありました。
ほかにも、服飾に対するタブーもありました。
たとえば、5つの爪のドラゴン模様、スタンディングドラゴン模様など、公務員や市民が着てはいけない衣服です。特別に許可をえたとしても、爪を一本削らなければなりません。軍も民も蛇模様、妆級、金花模様、ゴールド、絹、ミンク、宝石などを衣服に装着することはできませんでした。
近代資本主義の商業文化は、全体として古典的なシステムの束縛をとりのぞきました。
ステレオタイプになっていた悪い習慣が洗い流され、女性の装飾は時代の魅力的な雰囲気を示すようになりました。以前は等級分けされていて、まったく超えられなかった女性の領域は、消費者の関心と消費力の一般的な尺度によってだんだん薄れていったのです。
旗袍を着ることは個性を示す手段になりました。民国旗袍のスタイル、色、パターンは躍動感をもち、外国に向かった変化を求めはじめました。旗袍は中西合壁(中西融合)による製品となり、清代の旗人の袍から生まれたものが、旗人の袍とは違ったスタイルと魅力をもつようになりました。
結論と展望:清代袍服と民国旗袍の同異から
以上、旗人・旗女の袍(清代旗袍)と旗袍(民国旗袍)の4点の違いをみてきました。
約言して簡単にふりかえります。
清代、旗人の袍と旗女の袍に、男女の差は装飾だけでした。衣服形態の違い、つまり旗袍を構成する4つの要素に違いはありませんでした。
清代旗袍と民国旗袍の4点の違いや変化は、
- 曲線美の登場
- 脚部の露出
- 原材料の変化
- 着用者の拡大
でした。
要するに、全体が簡素になったわけです。
今からみれば、民国期の1930年代・1940年代前半の旗袍は、まだまだ重厚に見えます。でも、清の時代に比べたら、かなり簡素になったということです。
現代の旗袍でも、装飾を施すドレスメーカーや職人もいますし、線入り縁どりを採り入れる方もいます。つまり、清代の技術や装飾がゼロになったわけではありませんが、その数は微々たるもの。
旗袍営業中!
そのような寂しさを埋め合わせるべく、先日、「旗袍営業中!ドレスメーカーとデザイナー」のタイトルでページを作りました。
旗袍をつくれる人や店舗が減っているとよく言われます。そんななかで今でも営業を続けたり、新しく店舗を開いたりするドレスメーカーもあります。
ウェブメディアや知人たちや妻からえた、いまも営業する旗袍(チーパオ、チャイナドレス)のドレスメーカーを紹介しています。
さて、服装は時代を反映します。
旗人の袍と旗袍は、2つのまったく異なる時代を表しています。
前者は遅れていて閉鎖的で、後者は安定しません。このような違いにまとめられるでしょう。民国旗袍は解放・開放を手に入れた分、改良という永遠の作業に足を踏み込みました。
補足:接袖
あまり言われませんが、もう一つ付け加えるとすれば、接袖の登場です。
1940年代、接袖は一つの主流になっていきますが、他方の連袖の人気も根強く、今はどっこいどっこいと言えば言い過ぎでしょうか…。
ふつう、コスプレには接袖かノースリーブ、レトロ風やビンテージ風なら連袖が好まれるようです。現代コスプレって露出度が問われるようなので連袖は不向き。
といっても、ここ数年のビンテージ人気は勢いがあります。こちらでは連袖が大人気です。
こういう流れをみていると、新旧の裁縫技術がいま駆使されているんだと思えて、躍動感を感じます。
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